くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書33章9節
私が(エルサレムに対して)行うあらゆる恵みの業について(彼らが)聞くとき、この都は地上のすべての国民にとって喜ばしい名声、賛美、誉れとなる。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書21章9節
群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。
主の名によって来られる方に
祝福があるように。
いと高き所にホサナ。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今朝はゆっくりと夜休むことができ、いつもよりもかなり遅めに起きました(9時!)。左眼が見えない分、右眼をいつもの2倍使っているのでしょう。思っている以上に休むことを必要としているのかもしれません。そういう意味では、今朝はゆっくりすることができて、本当に良かったと思っています。その分、ローズンゲン黙想をお届けするのが遅くなってしまいましたが、御言葉に触れ、神様が与えてくださるメッセージに心を傾けたいと思います。
今日の新約聖書に選ばれたマタイによる福音書の一節は、イエスがいよいよ十字架にかけられる週のはじめに、都エルサレムに入城するシーンを描いたものです。「ダビデの子にホサナ」と歓声をあげた群衆の姿を創造することができるわけですが、「ホサナ」というのは「救ってください」という意味を持ちますが、それは祝福されたことを喜ぶための賛美のかけ声として、旧約聖書の時代から人々のあいだで用いられてきたフレーズでした。イエスこそ私たちの世界を救う御方なのだという、人々の熱い思いを感じさせるのがホサナだというのです。
救い主イエスが私たちを祝福してくださる。このことが大前提に立ってこそ、私たちの日々を生きる大きな土台となっていくことを、私たちはどれだけリアリティをもって受け入れられるかということが、この言葉の肝であると私は思っています。私たちが神からの祝福をなかなか感じ取れない時に、ここに祝福は存在しないと簡単に捨て去ってしまうのでしょうか。神の責任に押し付けてしまうのでしょうか。実は、神の祝福を受け止める私たちの側に問題があるということに、私たちは気付けないことがあります。
神の祝福は不変なのです。しかし、その祝福をキャッチする私たちが、自分の思い通りにならなければ、そのことに不平をこぼし、自分なりの言い訳をつけてはそれを退け、自分を常に正当化しようとする。祝福をいただこうとする人に対してあれこれ注文をつけては、その祝福を受けさせないようにしてしまう。人と人とが正義をぶつけることによって、神の祝福などそっちのけにしてしまう。私たちは、そんなことを独り善がりな態度で、神の祝福を見えなくさせてしまっているのではないか。そんなことを真剣に考えたいのです。
私たちはだからこそ、神に向けるまなざしというものを確かめながらも、神が私たちを見つめてくださっているその視線というものを見つけ、それを聖霊の助けを得ながら、是非キャッチしていきたいのです。そこに賛美があり、喜びがあり、希望がある。私事で言えば、今実際に眼が見えないからこそ、見るということの尊さに心を寄せることができるのも、大きな感謝だなと思わされました。
一週間の最終日、皆さんの時が豊かに祝福されますように。そして、日曜日への良き備えの時となりますように。心よりお祈りします。
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