くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ミカ書6章3節
わが民よ
私はあなたに何をしたというのか。
何をもって、あなたを疲れさせたのか。
私に答えよ。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙2章4節
神の慈しみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじるのですか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。これから訪れる七日間の日々、私たちはどのようにキリストとともに歩むことができるのでしょうか。そんなことを考えるうえで、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉はとても心に響き、また身の引き締まるような思いにさせられました。そのことをつづりたいと思います。
自分のことを棚に上げて、神に責任を押し付けようとする人間の態度が、今日の聖書の言葉を通して語られています。私たちの生活がうまくいかないのも、私たちが日々の暮らしのなかで生きづらさを感じるのも、人間関係にほころびが出るのも、人と人とが憎しみあい、刃を向け殺し合うのも、神がおられるのであれば、どうして平和にしてくださないのか。それも全部神のせいだと私たちはつぶやき続ける。このことは、昔も今も変わらない人間の不平の姿なのだと思わされます。
しかし、本当に神の責任なのでしょうか。そうではありません。私たちが神を忘れてしまっているからなのです。こんなに信じているのにですか?と問うかもしれません。そうです。神を信じている「ふり」を、私たちはしているだけなのかもしれません。私たち自身が神を信じていると言いながら、その神を利用している自分自身に気付かないのです。だから、うまくいかなれば、私好みにつくりあげた神に不平をぶつけているだけに過ぎないのではないでしょうか。私好みにつくりあげた神、結局は私自身が神となっていることに、私たちは気付けていない。これは善悪と知識の木から実を取って食べた、あのアダムとエバに相通じることなのだと私は思うのです。「神のようになれる」ことを受け入れて、あの木の実を食べたようにです。
神のもとに生かされている私たち。今日もその私たちが一つどころに集まって主が準備してくださった礼拝をささげようとしています。しかし、あえて自分に問いかけるとするならば、私たちは自分が出席しようとしている礼拝を「主が準備してくださった、ご自分の御言葉をもって、ご自分の慈しみを示そうとしておられる神に、私たちはどれだけ自分の思いや心を傾けようとしているだろうか」と、私自身問われているのだなとあらためて思わされるのです。教会における人間同士の交わりを思うときに、私たちは相手の顔色ばかりながめてはいないだろうか、もしくは神が慈愛をこめて取り扱ってくださる隣人の大切なものを傍若無人に踏みにじっていはいないだろうか。いずれにせよ、神をないがしろにして振る舞い、そこに亀裂が生じれば、簡単に人のせいにし、ついには「効き目のない神」に不満をぶつけてしまうのではないかと。
今日のローズンゲンは、とても厳しい神のメッセージであると私は受け止めました。しかし、その厳しさの背後には、神の慈しみというものがあふれている。この奥底にある慈しみに私たちが気づかされたときに、方向転換(悔い改め)をして、神が与えてくださる新しい思いによって、神とともに生きることが許されるのだと。七日の旅路を再び、主とともに歩むことができるのだと。これぞ幸いなのだと思えてなりませんし、そうでありたいと心から願わされるのです。
どうぞ皆さんの新しい一週間も、そのような気づきと幸いにあふれたものとなりますように。心からお祈りします。
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