22/08/2023

2023.8.22(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記13章4節
あなたがたの神、主はあなたがたを試し、あなたがたが心を尽くし、魂を尽くしてあなたがたの神、主を愛するかどうかを知ろうとされる。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一10章13節
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
私は今日の聖書の言葉。特に新約聖書の言葉に対して、常日頃からいろいろ考えさせられることがあります。そのことを雑感として書き綴りたいと思いました。黙想にならないかもしれませんが、どうぞお許しください。
 
神は私たちに耐えられないような試練に遭わせることはないと、この手紙の筆者であるパウロは読み手に伝えました。私も経験上、そのように感じることがこれまで多々ありました。しかし、やはり「耐えられない」と思うようなことも実際にあったのです。
 
私は、この聖書の言葉を読むときに、忍耐を強いることを主訴とはしていないと感じるのです。どうしてもこの聖書の言葉を精神論的に読んでしまうきらいがある。私はそのように感じてならないのです。耐えられなければ「信仰が薄い」と簡単にレッテル貼りすることがないだろうか。もし、そんなことを強いる信仰者の世界があるとすれば、それはもはや信仰者のすることでないと言っても言い過ぎではないと思うのです。
 
そうではない。神は「逃れ道」をも設けてくださる方であると。この逃れ道とは何かと考えさせられるわけですが、私はこの言葉を、文字通り「逃げる」ことを決して否定的に捉えないということを、私たちに伝えている。そう受け止めたいのです。
 
辛かったら逃げればいい。何も我慢大会のように、その場に居続けなければ信仰が薄いなどと思う必要もない。そうし続けることで、命が危ぶまれる可能性だってあるのだから。逃げることによって、神が与えられた命を保つことこそ、神とともに歩もうとする姿なのではないか。そう感じさせられるのです。
 
聖書にも「逃げる」ことで、その逃げた場に神が働かれた出来事を、聖書からいくらでも見い出すことができます。耐えるという行為は、できる時にはすれば良いことだし、そもそも耐えるとは決して孤独の作業ではないし、他者からとやかく言われてすることでもない。神が一緒にいてくださるから、そのところに、その日を過ごすことができるし、耐えきれないと思えば、神が設けた逃れ道を使って、本当に逃げれば良いのだと私は受け止めたいのです。
 
この考えは、おそらく受け入れられないとも思うのです。逃げるのは負けというこの世の中の常識があるからです。大切なのは、逃げるか否かではなく、逃げてもとどまっても、神がともにおられるということを、私たちの心の真ん中に置くことなのだと。そんなことを今日の黙想にあたって、あらためて考えさせられました。
 
どうか今日一日も、私たちとともに歩んでくださる神の祝福と守りが、皆さんの生活にありますように。お祈りいたします。

0 件のコメント:

コメントを投稿