09/08/2023

2023.8.9(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編119編165節
あなたの律法を愛する者には豊かな平安があり
この人たちをつまずかせるものはありません。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙3章16節
キリストの言葉が、あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。
知恵を尽くして教え合い、諭し合いなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
昨日も暑い一日でしたが、皆さんはいかがお過ごしでしたでしょうか。私はかねてより準備を重ねてきた、拙著『わたしがカルトに?ゆがんだ支配はすぐそばに』出版記念トークイベントが、無事に、そして盛況のうちにおこなうことができました。対面・オンライン合わせて70名弱の方々に参加していただけて、本当に良かったと思っています。これを励みに、許される限りカルト問題に携わっていきたいと心から願うばかりです。お憶えくださった皆様に、心から感謝申し上げます。
 
さて、本日のローズンゲンの言葉ですが、旧約聖書である詩編119編の最後の言葉です。神の律法を愛する者は平安を得、つまずかせることはないと詩人は歌いました。しかし、私は思うのです。モーセ爾来、いわゆるイスラエル国民のアイデンティティーをつくりあげてきた律法こそ、多くのつまずきをもたらしたのではないかと。特に、イエスと律法学者やその実践者のやり取りを見て思うのは、律法を使って、人をつまずきに陥れることができるかという、人間の側の問題が確かにあるのだということを実感させられます。
 
私は思います。律法に問題があるのは、それを与えた神ではなく、それをゆがんで運用しようとする人間の側にあるのだと。本質に回帰しようとせず、どうでもよい枝葉のことをこねくり回して人をつまずかせ、不安に陥れようとする人間の姿があるということを思わされます。それはあたかも、聖書を利用して人間をゆがんだ支配構造の渦に巻き込もうとする、カルト的な動きに相通じるものがある。私はそう思えてならないのです。
 
では、人間を平安な世界へ招き、つまずきのない律法とは何なのだろうか。それこそ、神がイエスを通して私たちに与えられる愛が中心に立ってこその律法なのだと。神に大切にされている私たちの実感がなくて、どうして律法を語ることができようか。それが「律法の完成者」であるイエスの生涯における主訴でした。律法は愛によって完成されるからこそ、その世界にはただ平安が、そしてつまずきのない社会が生み出されるのだということを、私は心に刻みたいと思わされました。
 
キリストの言葉に裏打ちされた神の愛が、私たちのあいだに宿るようにという願いが、今日の新約聖書の言葉にあります。宿ることとはとどまること。根付くこと。そこから幹が伸び、枝葉が成長すること。そのための本質というものを求めつつ、今日という一日を歩んでまいりたいと願います。
 
今日も暑い一日であると思います。どうか健康が守られますように。神の平安と祝福を心からお祈りいたします。

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