03/08/2023

2023.8.3(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ホセア書6章4節
あなたがたの慈しみは朝の霧、はかなく消える露のようだ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一13章1節
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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皆さん、おはようございます。
今日も変わらず猛暑の一日となりそうですが、そんなときにこそ、神によって与えられた命というものを慈しみながら、歩んでまいりたいと思います。決して無理をしない生活というのも、本当に大切なことであると私は思っていますし、無理をしなくても、神の御言葉に養われる工夫というものを、私たちはコロナ禍を通して学んできたと思いますので、その工夫に思いを注ぎたいということも、この夏特に思わされているところです。
 
さて、今日選ばれたふたつの聖句は、私にとっては「くさび」となるような聖書の言葉でした。それは「本当に私は神の慈しみに生きているだろうか」という問いが突き付けられたからです。
 
今日の旧約聖書の言葉であるホセア書6章4節にある「あなたがた」とは、同じ4節にある言葉を見れば明白ですが、その部分も含めて、4節から6節にはこのように記されていますので、それをまとめて掲載したいと思います。
 
ホセア書6章4~6節
エフライムよ、私はあなたに何をなすべきか。
ユダよ、あなたに何をなすべきか。
あなたがたの慈しみは朝の霧
はかなく消える露のようだ。
それゆえ、私は預言者たちによって切り倒し
私の口の言葉によって彼らを打ち殺す。
あなたの裁きは光のように現れる。
私が喜ぶのは慈しみであって
いけにえではない。
神を知ることであって
焼き尽くすいけにえではない。
 
上の言葉から「あなたがた」とは、エフライムでありユダ、つまり、神によって選ばれた全イスラエルの民であることが分かります。その民たちが示す慈愛が、はかなく消える露のようであると神はホセアを通して、ご自分の言葉を語られました。
 
つまり、見せかけの慈愛、かたちだけの慈愛が本当の慈しみなのかと、神は私たち人間に向けられ、厳しく問われています。そこに愛はあるのかと。自分は神の民であると豪語しながら、その神が私たちに示される慈愛の深さというものを理解せず、非常に表面的・外面的な部分だけで判断をして、愛を示すか否かを定めようとするイスラエルの姿に対して、神はホセアを通して、ご自分の愛というものを明らかにしようとします。
 
神の愛とは、裏切られても裏切られてもなおも、私たちの幸いのために働こうとするところに、大きなポイントがあります。簡単に朝露が消えてしまうようなものではない。今日の新約聖書の言葉にもあるように、どんなに華々しく信仰の行為を見せたとしても、聖霊がもたらすあらゆる賜物をいただいたとしても、それを他人をおとしめたり、自分自身が特別に選ばれた者であることを誇示するだけに用いるならば、何の意味もないと。そこに神が示された愛は、私たちのうちに通っているのかと、神はそう問われるのです。
 
ホセア書6章6節にもう一度、注目したいと思います。
私が喜ぶのは慈しみであって
いけにえではない。
神を知ることであって
焼き尽くすいけにえではない。
 
神の喜びは、ご自分の慈しみが人々に行き渡ることで、人間が幸せになり、その慈しみが、私たち人間のあいだに分かち合われることに他なりません。そのために、救い主イエスが私たちに与えられ、聖霊様が与えられて、聖霊様がもたらすさまざまな賜物を通して、神の愛というものが明らかにされていくのだと。この愛に生き、生かされる者としての私の人生があることを、今日の聖書の言葉を通して、感じ取っていきたいと願わされました。
 
どうぞ、皆さんのうちにもあいだにも、神の愛が豊かにあふれますように。今日一日も決して無理をしないところにこそ、神の慈しみがあることを信じる幸いにあふれますように。心からお祈りいたします。

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