箴言31編8節
あなたの口を、ものを言えない人のために
捨てられた人の訴えのために開きなさい。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙13章3節
自分も一緒に捕らえられているつもりで、捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人たちを思いやりなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
******
皆さん、おはようございます。
昨日は黙想をお届けできず、申し訳ありませんでした。昨日は代務教会での務めでしたが、とても充実したときを過ごすことができました。夕礼拝も休会、夜の時間もゆっくり過ごすことができました。世の中が「お盆休み」であるように、私もひとときの休みを、自宅でたまった仕事を片付けながら、ゆっくりと過ごすことができています。とても感謝なことです。
さて、今日の聖書の言葉を通して、私が思わされたのは「与えられた言葉を何のために用いるのか」ということでした。あの人の代わりに、恵みの言葉を用いるということの大切さについてです。
ある「誤解されやすい人」のことを思いました。とても口下手で、決して人付き合いの上手な人とは言えません。風貌と物言いから、いつも誤解されているのです。しかし、その人がそうなったのには訳があります。幼い頃から、つねにダメ人間の烙印を押されていました。だから、人に対してどうしても当たりがきつくなってしまうのです。
しかし、その人に必要なのは「神の愛」でした。甘えと言われるかもしれませんが、その人に必要なのは、究極的なところから受け入れられているがゆえの安心感でした。その人の言動にいくらでも忠言することができるでしょう。しかし、どんなに忠告を重ねても、本人が受け入れることができなければ、それは単なるお小言になってしまう。この人が愛を受け入れられるようになることが先なのだと思わされたのです。
そのために、神の恵みの言葉を、恵みと感じられるように、愛と感じることのできるように、私は言葉を選びながら、その人の枯渇した心に届くように伝える。忠告をうるさい説教ではなく、あくまでその人の心に届くように丁寧に、丁寧に思いを注ぎながら、言葉をつむいでいくという作業。それはとても骨の折れる作業です。
しかし、それが一番の方法なのだと思わされます。今日のふたつの聖書のことばを通して、あらためて、口の用い方というものに心を寄せることができました。言葉を選び、用いることの難しさがあるからこそ、神の助けをいただきながら、チャレンジする者でありたいと心から願わされた次第です。
皆さんの一日に、主なる神からの祝福がありますように。お祈りいたします。
0 件のコメント:
コメントを投稿