06/01/2023

2023.1.6(金) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌下32章24~25節
ヒゼキヤは病を得て死にかけたが、彼が主に祈ると、主は彼に答え、彼にしるしを与えられた。ところが、ヒゼキヤは受けた恩恵に報いることをせず、かえってその心を驕り高ぶらせた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一5章5節
神は、高ぶる者を退け
へりくだる者に恵みをお与えになる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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驕り高ぶる心。
そのことについて、黙想を深めたいと思いました。本日与えられたふたつの聖書の言葉を通して、私の心にある傲慢さとはいったい何だろうか。そんなことを改めて思わされました。
 
傲慢について考えるにあたって、本日の聖書の言葉を通して、私たちにヒントを与える言葉があります。「へりくだる」、つまり謙遜です。傲慢と謙遜という言葉が対義として用いられていることに注目できます。
 
本日の旧約聖書の言葉は、南イスラエル(ユダ王国)の王であったヒゼキヤにまつわる物語の一節です。彼は神にとても忠実に仕えていました。常に神を自分の心の真ん中に置いて、与えられた王としての立場を神とともに歩んだ人物でした。そういうヒゼキヤ王を、神は十分に祝福し、ヒゼキヤの治世中、都エルサレムをはじめとするユダ王国は発展するにいたりました。
 
ある日、ヒゼキヤ王は死病とも言える重い病気にかかります。その時も神はヒゼキヤ王の祈りを聞かれました。王として引き続き国を治めるように導いたのは、他ならぬ神でした。しかし、ヒゼキヤは自分が王として君臨できるのは、自らの優秀な政治力があるからだと誇るようになります。神を何よりも自分の生活の中心に立てていたヒゼキヤですら、その神を忘れてしまうことがあった。そのことを示すエピソードです。
 
神はヒゼキヤ王の傲慢を本人に気づかせるべく、預言者イザヤを遣わして憤りの言葉を授けました。はっと我に返ったヒゼキヤ王は、自分のしたことを真摯に見つめてその傲慢さを認めました。ヒゼキヤ王は、神を中心に置いて生活していると思い込んでいたのかもしれません。しかし、神の言葉が己の現実を彼に知らせました。つねに神の言葉によって自分自身を整えていたヒゼキヤ王だったからこそ、いっときの傲慢を認めて、自分自身を謙遜にして、神の言葉が指し示す方向へと、自分自身を転換することができたのでしょう。
 
どんなに謙遜を心がけて、そのように歩んでいると思っていても、傲慢という芽が吹いていることに気づかないことがあるのだと、本日の聖書の言葉から知らされます。そんなときに大切なこと。それは、自分自身のなかにある傲慢さにいかに気づけるか。その気づきは神の言葉によって与えられるとすれば、神の言(ことば)として生まれた救い主イエスが、私の心にいるのだろうか、そこに愛はあるんか?と、聖書の言葉と向き合いながら自分自身を確かめていくことなのだろうと。
 
だからこそ、たったひと言の聖書の言葉でも、それを一日一日積み重ねるようにいただいてくことの大切さを思わされます。そんな思いをもって、今日もローズンゲンの言葉に出会えたことを心から神に感謝しつつ、一日を過ごしてまいりたいと思いました。皆さんの一日も、ひと言の神の言葉が、皆さんの行く道をまばゆく照らしてくださいますように。お祈りいたします。

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