15/01/2023

2023.1.15(日) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
箴言21章3節
正義と公正を行うことを
主はいけにえよりも喜ぶ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙2章26節
霊のない体が死んだものであるように、行いのない信仰もまた死んだものです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
私は、今日の聖書の言葉を目にしたときに、とても驚かされました。なぜならば、本日私が働く仙台宮城野教会でおこなう説教題が「正義はどこにあるのか」というものだからです。つまり、人間の正義はどこにあるのかということを、聖書の言葉から取り次ごうとする前に、本日のローズンゲンの言葉が「正義と公正をおこなうこと」について言及した、箴言の聖句だったというわけです。
 
では、その正義とは、公正とはどこにあるのだろうか。私は説教の準備をするにあたって、このことを日々黙想させられました。先週も、本当にさまざまな「正しさ」というものが、世間を、そして私のなかを通り過ぎ、また駆け巡りました。人間は、自分が正しいと信じたことに従って、日々の営みをするわけですから、当然のことと言えます。
 
しかし、私のなかを通過したいかなる正しさをもってしても、究極的に完璧な正しさなど、私の側からつくり出すことはできないのだと痛感させられました。正しいと思ってしたことであっても、思い返せば、ああ、あの時こうしていれば良かったとか、こういう選択をするべきではなかったなど、反省や後悔することが多々あるのです。
 
しかし、そのような失敗は失敗ではないのだと。なぜならば、そのことを通して、神が言われる正義と公正とは何かについて、改めて考えさせられる機会が与えられたのだから。そのように受けとめられたら、神の正しさによって生きるという決意が新たにさせられるような気がしてならないのです。失敗とは、いつまでも自己を正当化し続ける態度のことを指すのではないだろうか。そう思ったのです。
 
私は、究極的に正しい御方である神がおられ、その正しさを私たちに生き方をもって示された救い主イエスから知り、学び、自分の生き方とすることができます。昨日、カルトに関する発題を、ある集会でしたときに「解釈と運用」次第で、健全な行動ができれば、カルト的な行動にもなる、という類の話をしました。
 
その後、来場者の方からこんな質問を受けました。「解釈と運用の基軸になるのはなんですか?」と。私は答えました「イエス・キリストそのものだと思います」と。私たちは正義を自己生産することはできないけれど、究極の正義であるイエス・キリストという存在を知らされているのだと。この御方の弟子として生きることは、イエスが示された正義と公正をいただいて生きることなのだと、改めて思わされました。
 
私たちはイエスの正義をいただいていたとしても、解釈しだいで間違って運用してしまうこともあるでしょう。しかし、そのことを通して、よりイエスの正義というものについて、深く考えさせられる機会が与えられることを考えれば、運用すること、つまり「行うこと」は、その道をたどるために必要な営みなのだと。本日の新約聖書に示された「行いのない信仰」というのも、イエスが中心にある私たちの行いというものを、私たち一人ひとりに気づかせる言葉なのだと受け止めました。
 
今日から始まる新しい一週間もまた、イエスの御心が私たちの行いを豊かにする、そんな日々でありますようにとお祈りいたします。主の御心が、天になるごとく、私たちの生き方を通して地でも行われますように!

0 件のコメント:

コメントを投稿