12/01/2023

2023.1.12(木) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記10章12節
イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。あなたの神、主を畏れ、主の道をいつも歩み、主を愛し、あなたの神、主に、心を尽くし、魂を尽くして仕えることではないか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一2章5節
神の言葉を守るなら、その人の内に神の愛が真に全うされています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
神の言葉を守るなら。
本日は、新約聖書・ヨハネの手紙一2章5節の言葉に注目してみたいと思います。神の言葉を守るとは、具体的にどういうことなのだろうかということをです。
 
私たちが「神の言葉を守る」と言えば、どういったことをイメージするだろうか。そんなことを考えますと、聖書の言葉をルールブックのように、法律の言葉のように遵守するといったようにとらえる向きがあるのではないだろうか。そんなことを思わされます。しかし、本日はあえて、神の言葉を守るということの意味は、本当にそのことを意味するのだろうか。そんなことを思わされます。
 
神の言葉とは何か。私はヨハネによる福音書の冒頭にある「はじめに言(ことば)があった」という一文に注目したいのです。この「言」こそ、私たちの救い主にしてまことの人、そしてまことの神であるイエス・キリストを指すわけですが、神の言葉とは、文字に書き記された聖書の言葉も指すことながら、それそのものがイエス・キリストそのものを指し示し、表現する言葉として、私はそれを受け止めたいのです。神の言葉とは何か、それはイエス・キリストそのものである、と。
 
ですから、神の言葉をいただいた者に求められているのは、その言葉に示された文字を忠実に遵守する私たちの行動よりも先に、言葉、つまりイエス・キリストが生涯をかけて私たちに示された「精神」というものを大切に握りしめることから始まるのだと。その精神があって、精神の意味を問うて、はじめて私たちの言動に反映されていくものなのだと、私は受け止めたいのです。
 
実際に、イエスは地上での宣教のあいだ、律法に込められた精神を忘れ、文字面だけでそれを厳格に守り抜こうとした律法学者やファリサイ派と呼ばれる人々に対して、律法の神髄・本質というものを示され、そして実践されました。まさに、本日の旧約聖書の言葉が指し示している「主があなたに求めておられること」に他なりません。
 
そういう意味で言えば、私たちは聖書の言葉を通して、神の言葉そのものであるイエス・キリストの生涯と精神というものをじっくりと知ることができます。イエスが何をされたのかの本質を私たちが理解し、大切にしようとするところには必ず、神の愛が全うされるのだと、本日の新約聖書の言葉には示されています。
 
とどのつまり、神の言葉=イエス・キリストの中心にあるのは、神の愛(アガペー)であると。このアガペーの愛を私自身の中心に据えたときに、私は与えられた聖書の言葉をどのように自分の生き方とすることができるのだろうか。そんなことを黙想させられます。
 
確かに神の愛・アガペーは、人を慈しみ、自分の利得を差し置いてでも働く愛ですが、時にはその愛がある種の厳しさへと揺り動かされることもあります。それがどのような形で愛が示されたとしても、大切なのは、他者に苦痛を味わわせ、いたぶるための道具として、神の言葉を利用してはならないのだということでしょう。それが、神の言葉を守るという意味を考えるうえで、私たちに求められる態度に大きく影響するのだと、私は本日の聖書の言葉を通して受け止めたいのです。その中心は神の愛であり、イエス・キリストそのものなのだと。
 
今日も神の言葉であるイエス・キリストが私たちに与えらえていることを思う時に、その言葉を大切に握りしめながら、大切に守ることができますように。握った手には、神の愛が豊かにあふれるような一日でありますように。お祈りいたします。

0 件のコメント:

コメントを投稿