09/01/2023

2023.1.9(月) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記23章1節
悪人に加担して、悪意のある証人になってはならない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙4章8節
きょうだいたち、すべて真実なこと、すべて尊いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判のよいことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日の旧約聖書の言葉は、いわゆる法廷の場において、どのような態度が求められるかについて言及された、モーセ律法の一節です。悪人に加担をし、悪意のある証人となってはいけない。まことにその通りです。そして、まさか自分が悪意に満ちた証人になるなどありえない話だ。私たちは誰でもそのように思うのではないでしょうか。
 
最近、このようなことがありました。ある人とある人とのあいだにトラブルが生じました。どちらも自分自身の被害性を訴えています。どちらの言い分を聞いても、とても嘘をついているようには思えないのです。しかし、事実はひとつしかありませんから、最終的には第三者の判断によって、何が事実であるかを判定しなければなりません。結果として、何が事実で何が事実でないかについての冷静な判断がなされました。
 
しかし、その判断に対して、双方は納得がいきませんでした。引き続き双方が自分の「真実」を訴え続けている。そんな出来事です。
 
事実はひとつしかありませんが、しかし、自分にとっての真実が、イコール事実とは限らない。客観的に見てどんなに事実ではなかったとしても、その人にとっての印象や感情、経験などがあいまって、その人にとっての真実となり得てしまうのです。そういう真実は結果として、無意識の虚偽となってしまうのだと、つくづく感じさせられました。
 
さて、問題なのは「無意識の虚偽」を私が担ってしまうときに、私は悪くないのでしょうか。私は、本日の旧約聖書に書かれた「悪人への加担」「悪意のある証言」とは、そういうもののことを指すのではないだろうか。そのように思ったのです。別に悪気はない、それが真実だと思って、良かれと思ってしたことが、結果として重大なミスリードとなってしまった。それは結果としてそのように自分自身を導いてしまったことに対して、真摯に向き合うことが必要なのでしょう。これは、最近私が経験したことを振り返って、そのような思いにさせられていましたので、本日の旧約聖書の言葉は、実にグサリとくるひと言だと感じたのでした。
 
私は思います。事実を真実なものとするには、どうしたら良いのだろうかと。私自身の真実を真実としないこと。真実なのはただひとつ。私たちの神にあることを、いかに謙虚に受け止めることができるかというところにかかっているのだろうと、本日の新約聖書の言葉を通して、あたらめて感じさせられました。
 
本日の新約聖書の言葉である、フィリピの信徒への手紙4章8節で言及されている「すべて真実なこと」ですが、ここで言われている真実とは、イエスが「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネによる福音書14章8節)の「真理」と同じ言葉が用いられています。つまり、真実とは、イエス・キリストそのものであると言えるでしょう。私の真実ではなく、キリストの心を自分自身の心、つまり生き方の根幹としようと心に決めて日々を営もうとするならば、私たちは本日の聖書の勧め通りに、真実を心に留めることを大切にできるのだと感じたのです。
 
私の真実をキリストの真実にすり替え、引き寄せるのではなく、あくまでイエスの真実に耳と心を傾けるための営みを、今日も聖書の言葉を通じていただくことができるのを感謝しました。イエス・キリストの真実が私たちのあいだに宿るときに、そこには神が与えてくださる平和と祝福が豊かにあることを信じつつ、今日という一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日に、そのような平和と祝福がともにありますように。お祈りいたします。

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