27/01/2023

2023.1.27(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編1編3節
(幸いな者)その人は流れのほとりに植えられた木のよう。
時に適って実を結び、葉も枯れることがない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙1章9,11節
パウロの手紙:
あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神を崇め、賛美することができますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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おととい、昨日と、ローズンゲンによって示された聖書の言葉は「義」について言及されたものでしたが、驚いたことに、本日も旧約聖書と新約聖書が「義」というキーワードによって結ばれています。
 
本日の旧約聖書である詩編1編3節は「その人は」という言葉から始まっていますが、その人とは、1節にある「幸いな人」であることが分かります。そして、幸いな人たちに相当するドイツ語聖書には「Der Gerechte」と書かれていました。「義人たちは」と訳することのできる言葉です。
 
そして、その義人たちはどのような者のことを指すのかというと、「悪しき者の謀に歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。主の教えを喜びとし、その教えを昼も夜も唱える人」(1節後半~2節)とあります。悪しき者たちの対極にある義人の姿は、主の教えを自分の生き方とする喜びと、主が与えてくださる言葉の本質をとらえつつ、その教えを賛美するように大切にする者として描かれています。
 
聖書の言葉は、その解釈と運用によっては、カルト宗教のように人を痛めつける凶器ともなり得る。聖書が伝える教えに向き合うことが辛くなるほどに、私たちを苦しめ続ける聖書の言葉であったとしたら、私たちはどうしてそのような言葉を喜び、昼も夜も口ずさむことができるだろうか。そんなことを想いました。
 
考えてみれば、救い主イエスは世界に対して、律法の完成者として、その解釈と運用の正しい道を示されました。それを人に強要することなく、まず自分自身がその模範をお示しになられることで、律法の言葉の本質というものを私たちに与えました。それが「神の義に生きる者の幸い」であり、本日の旧約聖書の言葉につながっていくのだと、私は受け止めました。
 
私たちが聖書の言葉に聴いて、それに従うということは、すなわち「愛が豊かにされていくこと」であると、本日の新約聖書であるフィリピの信徒への手紙1章の言葉は語ります。愛とは神が与えてくださった愛であり、その愛が人間のあいだに広がりゆくときに、その言葉をも苦しみの材料としていたずらに用いられるのではなく、喜びが行き渡り、その喜びを分かち合うことができるような言葉となっていくのだと。
 
それが「イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされ」ることの意味なのだと、私は思うのです。私たちがそのような実を携えて、今日という一日を歩むことのできる幸いを心から信じつつ、歩んでまいりたいと願います。皆さんの一日が、そのような幸いに包まれて、喜び歩むときとなりますように。お祈りいたします。

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