02/01/2023

2023.1.2(月) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章20節
エフライムは私の大事な子ではないのか。
あるいは喜びを与えてくれる子どもではないのか。
彼のことを語る度に、なおいっそう彼を思い出し
彼のために私のはらわたはもだえ
彼を憐れまずにはいられない――主の仰せ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章4~5節
神は憐れみ深く、私たちを愛された大いなる愛によって、過ちのうちに死んでいた私たちを、キリストと共に生かしてくださいました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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お正月の三が日のなかをお過ごしの方もおられれば、帰省や旅行を楽しんでおられた方々のなかには、Uターンの準備に入られておられる方もおられることと思います。2023年も日常に戻りつつあるときに、本日選ばれた聖書の言葉は、私を日々の営みへと送り出してくれるようなものだということを感じました。そのあたりのことを黙想しながら、本日の御言葉をいただきたいと思います。
 
神はエフライムを忘れることなく、憐れみを示し続けたと、預言者エレミヤは語っています。神がどのような方かを伝えている、とても大切なひと言ですが、では「エフライム」とは何でしょうか。もともとはイスラエル12部族のひとつであるエフライム族に由来するものでしたが、エフライムの領地が持つその豊かさから、神が祝されるイスラエルを象徴する言葉として、用いられるに至りました。
 
しかし、エレミヤの時代はすでに北にあるイスラエル王国は滅亡し、南にあるユダ王国も廃れ、都エルサレムの民たちはバビロニア帝国の捕虜として祖国を離れなければならない状況でした。イスラエルに未来はない。誰もがそのように思える状況にあっても、しかし、なおも神はご自分の民のためにはらわたをもだえさせて、深く憐れんでくださるのだと言っているのです。決して神は、ご自分の民がどんな目に遭ったとしても見捨てることなどないのだと。エレミヤはそう語ったのでした。
 
エフライムは私の大切な子、喜びを与える子であると、神は言われます。神によ人々への変わらぬ愛は、捕らわれの身であったユダヤの民の心を神に再び向けさせ、方向転換をする、つまり悔い改めて生きるのを決意することによって、数十年ののちに神の不思議な方法によって故郷への帰還が実現したのです。
 
私は思います。どんなに破綻があっても、分断があっても、そこに怒りや悲しみのようなものが存在したとしても、私たち自身ではどうにもならないような出来事が私たちをがんじがらめにしたとしても、神は必ずご自分のお働きによって、その鎖を解いて、私たちが悔い改めの実を結ぶことができるようにしてくださるのだと。
 
その神の憐れみを、私は忘れてはいけないのだと思ったのです。昨年の一年間を振り返りますと、私は公私ともども、随分人の怒りというものを買ったことを思い出します。もちろん理由はいろいろあります。私のいたらなさゆえのこともありますが、もっとこのことについて対話を重ねたいと思っても、その道が断たれてつらい思いをすることも幾たびもありました。どんなに自分が頑張ったとしても、物事の状況が良くならないときは良くならない。そう感じたのでした。
 
しかし、私が本当に忘れてはいけないことは、そんな私でも愛してくださり、キリストという救いの主を与えてくださった神がおられるという事実です。この神がユダヤの民を故郷に戻されたように、必ず以前の平和な状態へと帰らせてくださるのだということを、私の生きる希望としたい。そして、向きなおして生きるという日々の生活、営みを大切にして、神を覚えつつ毎日を過ごしたいと思わされたのでした。
 
許しのない世界のなかで、それを保持しようとする私たち自身の限界があります。感情がそうさせてしまうのだから、それは抗いようのない事実ですし、それに支配されている私がここにいます。許せない感情に捕らわれているなかで、そのことを振り返りざんげしつつ、神がご自分の方法で。不思議に私を平和への道へと導いてくださることを信じて、2023年という年の日々を歩んでまいりたいと思います。まずは今日からです。
 
皆さんの一切に、憐れみをもたれる神の愛が、ともに豊かにありますように。お祈りいたします。
 

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