10/01/2023

2023.1.10(火) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
出エジプト記3章11~12節
モーセは神に言った。「私は何者なのでしょう。この私が本当にファラオのもとに行くのですか。私がイスラエルの人々を本当にエジプトから導き出すのですか。」
すると、神は言われた。「私はあなたと共にいる。」
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書10章16節
イエスは言われた。
「見よ、私があなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り込むようなものである。だから、あなたがたは蛇のように賢く、鳩のように無垢でありなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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私はあなたと共にいる。
本日の旧約聖書である、出エジプト記3章12節において、神はモーセに対してこのひと言を告げています。まさに聖書全体のテーマと言っても言い過ぎでない、神は私たちと共におられるという言葉をです。
 
本日の聖書の言葉に続く3章14節で、神はご自分の名前について『私はいる』と告げておられます。多くの聖書は『私はある』と日本語で訳されていますが、私はこの訳し方に何となくぎこちなさを感じておりました。ですから、聖書協会共同訳で今回このような訳となったのは、これまでの違和感のようなものから解放されたような気がしています。そう。神はご自分の名前を通して、私たちと共にいてくださることを体現されておられます。そして、神の愛というものは『共にいる』ところから、すべてが始まっているのだと、私は受け取りたいのです。
 
さて、本日の旧約聖書の言葉は、神がモーセを、イスラエルの民をエジプトから脱出させるためのリーダーとして召し出す場面での一節です。かうてモーセは、エジプト王族のひとりとして暮らしていましたが、苦役のなかにあった同胞イスラエルの民が、エジプトの役人によって痛み付けられているのを見ては耐えきれず、その役人を殺してしまいます。しかし、そのモーセの行動が裏目に出てしまいます。イスラエルからそのことでかえってうとまれ、王ファラオはモーセを殺すよう命じます。モーセは殺されるのを恐れて、遠くミデヤン地方(現在のサウジアラビア)まで逃げのびて、羊飼いとして生活していたのでした。
 
そこに、神の招きがありました。エジプト人によって苦役を受けていたイスラエル人のうめきと叫びを、神が聴かれたからです。神はご自分の民イスラエルと共にいることを、ご自分の御業によって明らかにされる。これが出エジプトに至る神の動機です。そのために、神はモーセをお用いになられようとされますが、モーセは王と同胞に対して恐れを抱いていましたから、この私がどうして神に招かれるのかと思ったのではないだろうか。私はそう思うのです。
 
恐れゆえに、一歩前に踏み出せない状態が私を襲う時に、しかし、どうしても前に進まなければならない状況のもとにさらされると、「神は私に何をさせようとしておられるのか」と訴えたくなるときがあります。そんな時に神は、「私はあなたと共にいる」とひと言だけ、私に告げられる。そして、私が歩くことができるように、具体的に道を指し示してくださるのだ。モーセが神と共に歩んだ荒れ野の40年の出来事から、学べることなのだと改めて思わされます。
 
確かに、モーセがイスラエルの民とともに歩んだ40年の道は、歩きやすく快適な道のりではありませんでした。荒れ野のなかをまさにさ迷い歩く日々を過ごさなければなりませんでした。神とともに歩むというのは、禍(わざわい)から100%解放されて生きることを保証するものではありません。しかし、神が「私はあなたと共にいる」と約束し、そのことを危機と思えるようなところで具体的に明らかにしてくださるからこそ、苦しい道のりをも心を平安にして歩むことが可能とさせられるのだと。
 
まさに、本日の新約聖書においてイエスが弟子たちを宣教の道へと遣わすときに、その道のりは狼の群れのなかに放り込まれるようなものだけれども、神がご自分の知恵と純真さをあなたがたに与え、あなたがたと共におられるから、安心して宣教の道のりを歩みなさいと、弟子たちに告げられるイエスの思いに相通ずるものを感じずにはいられません。
 
私たちも、今日という一日が始まりました。その道のりはどのようなものか、私たちには想像もつきません。恐れのなかを歩まなけれなならないこともあるかもしれません。しかし、それでも、いや、だからこそ神は私たちと共にいてくださる。このひと言に支えられながら歩んでまいりたいと思います。共にいてくださる神が、皆さんに平安を与えてくださいますように。お祈りいたします。

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