16/01/2023

2023.1.16(月) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編71編23節
私の唇は喜び歌い
あなたに贖われた私の魂はあなたをほめ歌います。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙1章11~12節
光の中にある聖なる者たちの相続分にあずかる資格を、あなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝するように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日の旧約・新約聖書を貫くキーワードは「喜び」です。聖書にしばしば登場する言葉ですが、では、その喜びとは一体何だろうか。そんなところに注目しながら、あらためて喜びについて黙想してみたいと思いました。
 
これは私がいつも思わされていることなのですが、教会という場では、しばしば喜びということが強調されていて、「いつも喜んでいなさい」という聖書の言葉(テサロニケの信徒への手紙一5章16節)なんかもあったりして、どんなことがあっても、いつも喜んでいなさいと勧められることがあったりするわけです。
 
しかし、私たちは感情的に、喜ぶことができない時も当然あるわけであって、そんな時に喜べない自分自身の姿が不信仰なのではないだろうかと、なおも自分自身を責めてしまうようなことがないだろうか。そして、知らず知らずのあいだに、教会が聖書の言葉を使って、喜ぶことを強要していないだろうか。そんなことを思わされるのです。
 
表面的に喜びをつくろったところで、それが聖書の言う喜びにつながるとはどうしても思えないのです。私自身、自戒を込めて申し上げるならば、聖書の言葉を使って「喜びの同調圧力」というものを人々に迫っていけないことを痛感させられます。では、聖書の言う喜びとは何なのだろうか。それは「神がおられるということの事実」なのではないか。私はそう受け止めたいのです。私たちが喜ぼうが喜べなかろうが、神は私たちの姿を喜びをもって見守ってくださっているのだと。
 
神は私たちのことを愛してくださるというのは、同時に私たちの存在そのものを喜んでくださっていると言い換えることが可能なのだと思うのです。私たちが優秀だから、いつも前向きに積極的に生きているから喜ばれる、逆に私たちが喜べないような状況であるがゆえに、神がそのような私たちを喜ばないということではないと信じたいのです。
 
そして神は、私たちがどんな状況にあったとしても、ご自分の喜びをもって私たちと共に生きるという働きをなしてくださっているのだと。その喜びのかけらを私たちが少しでもいただけるのであれば、それが慰めとなり、励ましとなり、私たちが神の喜びのなかに包まれて生きていることを実感できるように、神が働いてくださるのだと。喜びとはそういうものなのだと、私は受け止めたいのです。
 
喜びとは、私たちの側がカラ元気を装ってでも、明るく元気に楽しく振舞うことで生じる見た目の雰囲気ではなく、神が静かに、しかし力強く、忍耐を思いをもって、私たちがこの世界で生きていくことのできる源なのだと。神が与えられる喜びはとても地味で、にぎやかなものではないかもしれないけれど、しかし、確実に私たちを生かす源なのだと。
 
私たちに命を与え、生きるという資格を与えてくださっている神が、私たちが生きているという事実だけを見て、喜んでくださっている。この言葉に心が動かされたときに、私たちは初めて自分の唇をもって、神を賛美することができるのだと。決して喜びの同調圧力を人間が振りまいて、形ばかりの喜びをつくり上げることのないように、肝に銘じたいと思わされました。
 
神が私たちに御顔を向けることで明らかにされるご自分の喜びを、少しでも受け取ることができますように。ちょっとしたことで決して消え去ることのない喜びというものが、私たちを生かしてくださいますように。祈りつつ、一日を歩んでまいりたいと思います。喜びが失われているところにこそ、神がともなってくださることを信じつつ、皆さんの一日に神の守りがありますように。お祈りいたします。

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