14/11/2022

2022.11.14(月) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エゼキエル書14章6節
主なる神はこう言われる。立ち帰れ。あなたがたの偶像を離れて立ち帰れ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章2節
あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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あなたがたの偶像。
 
今日の旧約聖書に記されていたこの言葉に、注目したいと思いました。あらためて偶像とは一体なんだろうか。私にとっての偶像とは一体なんだろうか。そう思ったのです。
 
神が私たちに対して、偶像から離れなさいということを、律法以来、何度も伝えていることを、私たちは知っていると思います。そのときに、偶像とはなんだろうかということを私たちは考えるわけですが、偶像とは、単に神仏のかたちをした「像」のことだけを言っているのだろうか。実は偶像というものは、目に見える像だけでなく、人間の手や、思い、心によって編み出されたものならば、すべてにおいて「偶像」と呼ぶことができるのでないか。宗教のかたちを取らなくても、人間がこの世界で生きている以上、あらゆる偶像があらゆるかたちで私たちの生活を取り囲んでいるのではないか。そのようにあらためて思わされました。
 
偶像。それは人間の不安から生じるものであると私は考えています。私たちは、自分自身のうちにある不安を解消するために、なにかに依存することを覚えます。依存することで安心感を得ます。しかし、それはいっときの安心かもしれない。そうすると私たちはまた不安になり、より依存しやすいものへと目移りしていき、そこに自分自身を寄りかからせようとする。その繰り返しを私たち人間の歴史は繰り返しているのではないだろうか。そのように思ったのです。
 
神が偶像から離れなさいと言っておられるのを、私たちはなぜ守ろうとするのでしょうか。神から罰を受けるからでしょうか。それが恐いからでしょうか。そんなことよりも大切なのは、それが私たちの実際の生活にとって本当に無意味で、空しいものだからではないでしょうか。つかの間の安心を得るために、いろいろなものに飛びついてはそれに飽き足りずポイポイ捨てていくような私たちの「態度」こそ、偶像をしがみつく根のような気がしてならないのです。
 
私たちの不安を根本から解消させるものとは一体なにか。そんなことを考えるときに、私たちにいつでも戻る場所があることを示してくださる神がおられるということではないかと、私は今日の聖書の言葉を通して受け止めたいのです。立ち帰れと私たちに呼びかける方が、私たちに帰る場所を教え、その場にある安心を提示してくださるというのです。私たちは、安心とは一体なにかを、私たち自身が祈りつつ、御言葉に聴きつつ、神と対話を重ねながら、自分のこととにしてその生活を歩ませていくことができるのだと。これは理由なき義務ではなく、私たちの主体に委ねられた選択の結果なのだと。それが、今日の新約聖書の言葉にある「わきまえ知る」という言葉に示された意味なのだと思うのです。
 
今日の一日にもまた、神が差し出してくださった道を歩むことによって得る安心が、ともに豊かにありますように。お祈りいたします。

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