02/11/2022

2022.11.2(水) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨブ記3章20~21節
なぜ、労苦する者に光を与え
魂の苦しむ者に命を与えるのか。
死を待ち望んでも、それは来ない。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙2章8節
しかし、私たちはいまだに、万物がこの方に従っている状態を見ていません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
今日、私たちのために選ばれた旧約聖書の言葉は、まさに現実に生きる人間の姿というものを、ありありと描き出しているような気がしてならない。そんなことを私は真っ先に思わされました。
 
なおも生きよと言われる神。しかし、現実の苦痛を見たら、とうてい神に守られているという感覚すら起きてこない。こうなったらもはや、死んでしまったほうが楽なのではないか。しかし、神は私が死ぬことよりも、なおも生き続けることを指し示すのだ。どうしてなのですか、神様。
 
悪魔のいたずらによってすべてを失ったヨブ。神のなさることを心から信頼していたのにもかかわらず、このざまはなんだと、やり場のない思いを打ち明けているシーンが今日の旧約聖書の言葉です。クリスチャンになったから、万事ことがうまくいくなどということはない。私たちが経験することです。神を信じて生きるということを知ったからこそ、私たちは神に期待します。神に依存したくなります。そして、自分の願望を神にぶつけます。
 
しかし、神は聞いてくれないのです。なかなか思った通りのことが起きない。そのときの失望たるや、ヨブほどのものではなかったとしても、計り知れないと思うのが私たち人間なのだと。私の現実なのだと。そう思うのです。
 
そんな私たちに、なおも生きよと告げられる神がおられる。どうしてなのでしょうか。私たちには到底知ることのできない、神のベストな計画というものが私たちに与えられているから。私たちが最高の選択と思ったはるか先にある、神の守りと祝福が待ち構えているから、神はなおも生きよ。あきらめるなと、私たちに訴えておられるのだと。
 
そうです。私たちはまだ「知らない」のです。まだ「見ていない」のです。イエスを通して万物の救いを受け取っていても、私の救いを受け取ったとしても、それを具体的に見ていない、まだ知らない。イエスが私たちとともにおられることによって、私たちの待ち受ける先に、どんな幸いがあるかを、まだ知らないのです。
 
それまでの間、私たちに訪れるのは大きな不安です。見えないからです。まだ知るに至っていないからです。先行きの見えない暗闇を、もがきながらさまよい続ける私たち。遠く向こうに光が射していたとしても、うつむくばかりでその淡い光すら見えなくさせられている。自分自身のまわりに固い壁をつくって、そのなかに閉じこもってしまうのです。
 
待つのはつらい。待てない。しかし、神が必ずその先におられる。今がそのときではない。だからこそ、今はじっと待とう。その作業は本当につらいものかもしれない。しかし、生きてりゃ何とかなる。神が必ず、私たちが光明を光明と感じられるように導いてくださるのだから。すでに確固たる信仰の実体であるイエスが、私たちには与えられているのだから。
 
ヨブは、最終的にはこれまで以上の祝福をいただき、晩年を豊かに生きることができました。神がなおも生きよという呼びかけに、ヨブが最終的に従った結果でした。私たちもまた、イエスがともにおられる。このイエスのなさることに望みを託して、今日という一日の戦場に繰り出すことができるのだと。そんなことを思わされました。
 
もし今日という一日を戦い続けているかたがおられるならば、神がその一日を乗り越えさせてくださいますように。私自身の心に、あなたがおられるというたったひと言が、慰めの源となることができますように。お祈りいたします。

0 件のコメント:

コメントを投稿