01/11/2022

2022.11.1(火) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書2章14節
娘シオンよ、喜び歌え
今、私は来て
あなたのただ中に住むからだ――主の仰せ。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1勝68節
イスラエルの神である主は
ほめたたえられますように。
主はその民を訪れて、これを贖われた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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今日の新約聖書の言葉は「ザカリアの賛歌」と呼ばれる、老いてから洗礼者ヨハネとなる子を授かったエリサベトの夫である祭司ザカリアが、その出来事を喜び、神をたたえて歌った賛美の一節です。
 
私たちとともにいてくださるという意味をもつ、私たちの神である主(ヤハウェ)は、私たちのもとを尋ね、私たちを贖われたとザカリアは歌いました。贖うとは、代価をもって買い取るという意味であり、身代金という言葉でも表現できるものです。
 
私たち一人ひとりが、神から遠く引き離されている状態のなかで、どこに進んでいいのかわからずに、ただもがいている現実を前提にしています。誘拐犯がこどもを誘拐して、親元から遠く離れたところで監禁する。そんなイメージを抱くことができます。そもそも、こどもはいきなり、突然に誘拐犯にさらわれたわけではありませんでした。自由気ままに、行きたいところへ行こうとして、その結果迷子になったところで、誘拐されたような状態になってしまったというのです。ここがどこかわからない。どうして良いかわからない。どこへ行ったらよいのかもわからない、と。
 
しかし、神はそんなこどもを、好きなところへ自分で行ったのだから、自力で帰ってきなさい。迷ったりさらわれたりしたのは自業自得だとは決して言いませんし、そんな扱いは決してされませんでした。神御自身が、あなたがたとともにいると約束されたその名前の通りに、遠く引き離されたところにまでおもむいて、自分のこどもを助け出してくださる。ここに神の払った多大な犠牲という「身代金=贖い」があるというのです。
 
自分自身の力で何かを切り拓こうとしても、それがすべてうまくいくわけではありません。そんななかをさまよい歩くときの孤独感といったら、なんとも言えないつらさを思うものです。しかし、そんなときでも、私たちを訪れ、私たちとともにいてくださる方がおられる。私たちの心に住まう神がおられるのだ。これを私の生きる慰めとしたい。
 
11月が始まりました。仙台の朝も随分冷え込んできて、冬の足音が近づいているような気がします。美しい紅葉も次第に散り、枯れ木の寂しさがやって来る。しかし、その木にも神がその命を守ってくださる。下旬にはクリスマスを待ち望むアドヴェントもやって来ます。このひと月が、ザカリアの賛歌へと私たちが導かれる備えのときとなりますように。心からお祈りいたします。

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