03/11/2022

2022.11.3(木) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エゼキエル書28章25節
私が散らされた先のもろもろの民のもとからイスラエルの家を集めるとき、彼らによって私が聖なる者であることを諸国民の前で示す。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙11章29節
神の賜物と招きは取り消されることがありません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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私たちの神が「聖なる者」であることが、どのようなかたちで示されるのか。今日示されたふたつの聖書の言葉を通して思わされたのは、いかにご自分の民というものを大切にしておられるかということで、ご自分が聖なる者であることを明らかにしているのだ、ということでした。
 
ここで「聖」という言葉に、私は注目したくなりました。聖とは清さをイメージさせるものであるということは、誰でも知っていることだと思いますが、聖書において「聖なる」という言葉が示す意味とは「分離する」であると言われています。つまり、世の中のあらゆる混在したところから分離させて、そして抽出するようなイメージでしょうか。
 
このことを「神の聖」に当てはめて考えるならば、神が世のあらゆる国民のなかから、ご自分が大切にされる民を探し出し、拾い出し、集められるといった神の行動が、まさに神の「聖」に基づいたものであると言える。そのように感じたのです。
 
本日の旧約聖書の言葉は、そんな神の思いがあふれたものである。方々に散らされたご自分の民を、再びご自分の民として集められてひとつの国民とする。そして、その国民を大切に守ることで、神の聖性というものが明らかにされるのだ。そう考えると、聖とは何かというものが分かってくるような気がします。
 
どうしても「聖」と言うと、私たちの側の聖さ(きよさ)とか、クリスチャンとしての聖潔のような側面が強調されてしまうかもしれません。かつて、そのことに熱心に取り組んだのは、いわゆる律法学者やファリサイ人と呼ばれる人たちでした。しかし、その熱心さは、神の聖性というものの本質を基本としていないものでした。あくまで人間の側に聖い/聖くないの基準を重視して、そうして窮屈な社会をつくりあげてしまったのです。
 
そんな社会に神の聖の本質というものを明らかにしたのはイエスであり、イエスが世界の救い主になることによって、神御自身の聖によって集められる民は、全世界へ広がったというわけです。イエスが人々と結ばれた新しい契約は、決して破棄されたりすることなく私たちすべてに、2000年ものあいだアプローチし続けられています。キリストによる救いという賜物が、私たちへの招きとともに、決して取り消されることなくです。これが、本日の新約聖書の言葉の示すところであると、私は受け止めました。
 
日本では、今日は文化の日。ひとときの休息を楽しまれている方も多くいらっしゃると思います。そんな休息が、神の聖を思う時となりますことを、心からお祈りいたします。

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