詩編97編10節
主は忠実な者の魂を守り
悪しき者の手から救い出す。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二6章4,5,8~9節
私たちは、あらゆる場合に自分を神に仕える者として推薦しているのです。鞭打ち、投獄、騒乱、労苦、不眠、空腹にあっても、栄誉を受けるときも、侮辱を受けるときも、不評を買うときも、好評を博するときにも、そうしているのです。私たちは人を欺いているようでいて、真実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかけているようでいて、こうして生きているのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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昨日、無事にドイツ・フランクフルト空港に到着し、今回最初の目的地であるケルンへ到着しました。日本とは8時間の時差がありますので、いつものように朝6時前に目覚めて、いつものように御言葉の黙想をしていますが、これを読んでくださる日本の方々は、すでに午後を迎えていることと思います。なるべく日本の朝にお届けしたいという思いもございますが、もしそれができなければ申し訳ありません。どうぞよろしくお願いいたします。
今回、5年ぶりにケルンの街を訪ねました。久しぶりに耳にするドイツ語の波にもまれながら、懐かしい風景の数々に触れています。ケルンという街の名は、「植民市(コロニー)」がもととなっているように、ローマ帝国の支配下で生まれたいわゆる「古都」です。そんなケルンに最初の教会が建築されたのは4世紀。まさにローマ帝国の国教としてキリスト教が認められたのに合わせて聖堂が建てられたことがわかります。街のいたるところにその当時の遺跡が残されていますので、ローマ帝国時代の雰囲気というものも味わうことができます。
私は、今日選ばれた新約聖書の言葉を通して、そのローマ帝国の社会に生きた使徒パウロのことを思いました。本日の御言葉には、直接ローマ帝国とのかかわりのなかでパウロが語った言葉ではありませんが、しかし、福音というものが伝えられ、分かち合われるその過程・プロセスというものは、そう簡単なものではなかったのだなということを、つくづく感じさせられるのです。実際に、パウロは手紙の送り先であるコリント教会での伝道は、決して順風なものだけではなかったことは、彼がその手紙で書いている通りです。
そのような環境のなかで、パウロは本日の聖書の言葉に当たる部分を執筆します。パウロはたとえ順風であろうとも、逆風であろうとも、そのような風に翻弄されることなく、ただ忠実に神の民として生きようとするパウロの姿勢から生まれた言葉だったのではないかと、私は思わされました。ただ淡々と、どんなときにも神が私をその御心で守ってくださる。そのことが、自分の身に起こる変化で何かが変わることはないのだ。そんなパウロの姿勢というものに、私も生かされたい。そんな思いにさせられました。
ドイツ滞在中、なるべくコンスタントに黙想をお届けできるように時間を取ってまいりたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。皆さんの一日に、神様の守りと平安をお祈りいたします。
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