04/11/2022

2022.11.4(金) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書15章16節
あなたの言葉は私にとって喜びとなり
私の心の楽しみとなりました。
万軍の神、主よ
私はあなたの名で呼ばれているからです。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書15書10節
イエスの言葉:
あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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あなたの御言葉は、私にとって喜びとなり楽しみとなるのです。なぜならば、私は「あなたのお名前」で呼ばれているからです。
 
預言者エレミヤの言葉です。エレミヤは、神の言葉を民たちに取次ぎ、伝えるメッセンジャーとしての役割を担っていました。それが預言者として神から託された務めだったからです。神の言葉を胸に抱き、それを握りしめながら生きる。それがエレミヤにとっては大きな喜びであり楽しみであるというのです。
 
しかし、エレミヤの預言者人生は決して順風満帆なものではなかったはずです。むしろ、困難の多い人生。それがエレミヤの預言者としての歩みでした。神の言葉を伝えても、それに耳を傾ける人はおろか、かえって民からの迫害を味わうことになります。神の名を利用して、分かったような口をきくんじゃない。神を冒とくするな。そんな声もあれば、全く無関心の反応がエレミヤを突き刺すことがあったのではないかとも思うのです。
 
にもかかわらず、エレミヤは神の言葉を通して、神である主のお名前が呼ばれることが、大きな喜びであり楽しみであると告白しているのです。主のお名前、それは私たちの神となってくださる御方が、私たちとともにいてくださる。私たちが神に背を向けて生きようとも、無関心であろうとも、神は私たちにその御顔を向けられ、私たちを守られる方なのだということを表しています。「私はいる」という意味のお名前に。
 
エレミヤは、神なる主のお名前に示されたご自分の愛を受け取っているからこそ、その愛をもって一人ひとりに神からのメッセージを取り次ぐことができました。それがなかったら、預言の言葉も、単なる断罪と呪いに満ちた通告に過ぎなかったでしょう。たとえ人には厳しい言葉が取り次がれたとしても、そこには愛がある。神の愛がある。この愛に、私たち一人ひとりが生かされるのだと。
 
イエスは弟子たちに言われました。あなたがたも私の掟を守るならば、私の愛にとどまっているのだと。そもそも神の掟とはなんなのか。道徳的に品行方正に生きることか、~してはいけないという言葉を禁忌事項として避けて生きることか、聖書を人間の価値を品定めするためのルールブックとすることか。大切なのは、その土台というか根底に神のお名前に示された「愛」が脈々と、水脈のように草木をうるおす水源のごとく流れているかということなのだと、私は今日の聖書の言葉を受け止めました。
 
私は、今日のエレミヤの言葉を通して、私もまた神の言葉を礼拝で取り次ぐという務めが与えられている者として、エレミヤが「それが喜びであり楽しみである」と告白した姿に、大きな共感と励ましをいただきました。次の日曜日は、多くの教会がそうであるように、仙台宮城野教会も「永眠者記念礼拝」がおこなわれます。昨日、その礼拝を楽しみにしておられる宮城野教会のメンバーの方とお話する機会があり、そこにも、神の愛が脈々と流れることへの期待を思い、心を込めて準備をしたくなりました。
 
今日の一日もまた、愛に満ちあふれた神の御言葉を受け取る私たち一人一人が、そのことのゆえに喜び、楽しむことのできる時となりますように。心からお祈りいたします。

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