17/11/2022

2022.11.17(木) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編116編7節
私の魂よ、休息の場に帰れ。
主はお前に報いてくださった。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙二3章16節
平和の主ご自身が、いついかなるときにも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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本日の旧約・新約聖書の両方を貫く言葉は「平和」であると受け止めました。平和(旧約の原語であるヘブライ語でシャローム、新約の原語であるエイレーネー)という言葉は、とても幅のある意味を持つ単語ですが、その数ある意味のひとつに「休息」があります。
 
つまり、平和とは私たちに休息を与えるものであるという理解は、とても分かりやすい平和の意味を私たちに提供しています。休息は私たちに心安らかな思い、すなわち平安を与えるということからも明らかです。
 
では、その平和を私自身どれだけ大切にしているだろうか。そんなことを、今朝のひと時に思わされた次第です。平和とは、人と人とのあいだに争いごとをつくらないという意味を持っていることは、誰でも知っています。戦争のない世界こそ平和である。長年叫ばれていることです。
 
しかし、究極的には人と人とが究極的に平和な状態になることは、どれだけ大変なのかを思わされます。どれだけ平和が叫ばれたとしても、世界大戦と呼べるような戦争からごくささいないさかいに至るまで、人々のあいだに争いごとが無かった時代など無いからです。
 
争いは、自己主張のぶつかり合いから起きます。自己主張することは全然悪いことではありません。しかし、自己主張を「絶対化」するところにこそ、平和を阻害する根というものがあるのだと私は考えています。だからと言って、自己主張を納得のいかないままに心のうちに抑え、我慢するようでは、あまり良い解決方法であるとも思えないのです。
 
だからこそ、私たちは自分たち以外の誰かによって、自分自身を整えていく必要があります。それが、私たちの神であるというのです。私が朗子さんと結婚したときに、司式をしてくださった今橋朗牧師が、準備会でこんなことを仰ってくださったのを思い出しました。
 
夫婦は、お互いの顔だけを見つめ合っていたのでは幸せにはなれません。お互いのあらばかりが見えてくるからです。本当に幸せになりたいのであれば、ふたりが神を仰ぎ見て、そして手をつないで歩くこと。これこそ、家族が平和であるために、無くてはならないことなんです。
 
平和の主と言われる私たちの神が、私たちにひとときの休息を与えてくださるとは、自分自身というこだわりの荷を一旦降ろして、神のもとで安らげるような時を持つことなのだと私は受け止めました。御言葉に触れて、祈るひとときが、そんな時となることを心から期待しつつ、神が与えてくださる休息こそ平和への第一歩と信じて、今日も歩んでまいりたいと思いました。
 
皆さんの一日にも、神様の平和が豊かにありますように。お祈りいたします。

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