30/09/2026

2026.9.30(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
歴代誌下15章2節
もしあなたがたが主を求めるなら、主はあなたがたに現れてくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書4章25~26節
女は言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知らせてくださいます。」
イエスは言われた。「あなたと話をしている私が、それである。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
今日で9月も最終日を迎えました。いつになく自然災害の多かったこの一か月間でした。被災の地にある方々の痛みを思わずにはいられません。どうか、それら苦痛のなかにおられるすべての人々に、神の慰めと励ましが豊かにあることを、心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「神である主を求めることの幸い」であると私は受け止めました。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、南イスラエル(ユダ)王国の第3代目の王であったアサに、預言者アザルヤが進言した言葉です。アサ王はこの時、順風満帆な王としての歩みをしていました。そんなアサ王に対して、アザルヤが語った言葉は「神である主を求める」ことをさらに勧めるものでした。このアザルヤの言葉にアサ王は素直に受け入れます。さらに、神とともに歩むことの大切さを、自らの政治に余すところなく生かしました。それによって、ユダ王国には長期間にわたる平和が訪れたのでした。
 
「得意冷然、失意泰然」という言葉がありますが、順調なときにこそ、順調であることの意味というものをじっくりと噛みしめたときに、そこに浮かび上がってくる神の御顔と深いまなざしがあることに感謝し、主とともに生きる喜びを味わいたいという憧れを大切にしたいと、襟を正されるような思いで、今日のみ言葉を受け入れたいと思いました。
 
そして、今日の新約聖書の言葉は、不幸な人生を歩んでいたサマリア人の女性に主イエスが現れたときの会話です。彼女はずっと救い主が現れるのを待ち望んでいました。その人生が不幸なものであったからこそ、彼女の希求の思いというものは特別だったのかもしれません。しかし、主はそんな彼女の求めに対して、確かに答えられました。
 
得意にあっても失意にあっても、神を求めることが私たちの人生を豊かにするのだ。そんなメッセージを胸にして、今日も一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日にも、神が豊かに臨んでくださいますように。心からお祈りします。

29/09/2026

2026.9.29(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ダニエル書2章20節
神の名が代々とこしえにたたえられますように。知恵と力は神のもの。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録7章12節
アーメン。賛美、栄光、知恵
感謝、誉れ、力、権威が世々限りなく私の神にありますように。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
今日も、私たちをよろしくご支配くださる神が、私たちひとりひとりの心と行動を守り導いてくださいますように。そのことを祈りつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に聴きたいと思います。
 
今日の旧約・新約聖書に共通するテーマは「神をほめたたえる」というものでした。神をほめたたえることは、私たちの生活が順風満帆で、明らかに「神からの祝福」を感じるときにこそ、できるものなのではないかと思うのですが、では、逆風が吹き荒れて、船が難破してしまいそうなときにも、私たちは神をほめたたえることができるのだろうかということを、私はあらためて問いたいと思ったのです。
 
とうてい神をほめたたえることなどできない。これが偽らざる私たちの本音でしょう。しかし、そんなときにも神をほめたたえるとはどういうことなのかについて、今日のふたつの聖句は私たちに励ましを与えています。
 
今日の旧約聖書の言葉は、預言者ダニエルによる神への賛美でした。この時のダニエルは、祖国を離れて、バビロニア帝国の捕虜とされていました。神を自由に崇拝することの難しい環境のなかで、彼の境遇は決して幸せなものではありませんでした。しかし、ダニエルは、にもかかわらず、自分たちを守ってくださる神の存在に疑いの思いを挟むことなく、神を賛美し続けたのでした。神はそのダニエルを、後々大いに祝福することになります。
 
また、今日の新約聖書の言葉は、ヨハネの黙示録の一節でした。ヨハネの黙示録は、イエスをキリスト(救世主)と信じたがゆえに、時の政権であったローマ帝国からの激しい迫害のなかを生き抜いてきたクリスチャンたちに宛てられたものでした。過酷な環境のなかにあっても、キリストは必ず信仰者を守られる。この希望に満ち溢れた黙示録の内容は、読み手に大きな励ましを与えたに違いありません。
 
順調にあっても、逆境にあっても、それでも私たちは神を賛美することが大いに許されているのだ。これが、私が今日受け止めたいと思ったことでした。このような賛美が、のちのち神によって大きな祝福を感じるきっかけとなりますようにと祈りたいと思います。今日の一日の生活がそのような出来事への出会いの機会となりますように。皆さんの主にある平安を心からお祈りします。

28/09/2026

2026.9.28(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ホセア書2章21節
私はあなたと、とこしえの契りを結ぼう。
私は正義と公正、慈しみと憐れみをもって
あなたと契りを結ぶ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書15章16節
(イエスの言葉)
あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。
昨日の「主の日」、皆さんはどのようにお過ごしでしたでしょうか。それぞれの充実した一日を送られたことと思います。そして、今日からウィークデイの日々が始まりました。どうか、平日の日々を歩まれるその一つひとつの出来事に、神が豊かにともなってくださいますように。そのことを祈りつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から黙想つづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、預言者ホセアに神が与えられた「契り」でした。契約と書かず、あえて契りと日本語に訳したところに、温かみのようなものを感じたのは私だけでしょうか。そこには、この聖句に描かれているように、神の「慈しみと憐れみ」というものが充分に込められているような気がしてなりません。
 
ホセアが預言者として活動していた時代、神の民であるイスラエルは、自分たちの神をないがしろにして、魅力的な偶像に心が魅了されていました。そのような「不倫状態」は、実はホセア自身の家庭の状況そのものでもありました。ホセアの妻ゴメルは、不倫の末ホセアではない男性との子を産みます。このような不貞をホセアはどのように向き合わなければならなかったのか。ゴメルはその後、不幸な人生に見舞われますが、ホセアは神の慈愛と憐れみの心をもって、ゴメルとその子たちを引き取りました。
 
神が人間に結ばれる契りに込められたいつくしみとあわれみは、「正義と公正」という基盤があってこそのものであることが、今日の聖句から読み取れます。神の正しさ(ツェダカー)と公正(ミシュパート)があってこそ、神は人間の裏切りにも忍耐をもって応え、人間が神御自身のもとに帰って来ることができるようにしてくださったのです。
 
ですから、神の正義と公正なしには、愛もいつくしみもあわれみも全く存在しないのです。そのような神の愛に、私たちはどのように応えることができるだろうか。そんなことを強く思わされます。
 
私たちが自分の自由裁量で、数あるなかから神を選んだのではなく、神のそのような正義と公正によって、私たちが愛されて選ばれたのです。それが、十字架に架けられる前夜に、イエスによって弟子たちに語られた言葉の真意です。私たちひとりひとりが、この愛にしっかりとホールドされながら、新しい日々を歩むことができる幸いに、私たちひとりひとりが包まれたい。そんなことを思わされたのでした。
 
今日も、そんな神が私たちの一日を祝福へと導いてくださいますように。祈りつつ、皆さんの主にある平安を心よりお祈りします。

27/09/2026

2026.9.27(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
サムエル記上12章22節
主はその偉大な御名のゆえに、ご自分の民を決しておろそかにはなさらない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書17章25節
(イエスの祈り)
私は彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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おはようございます。新しいい一週間が始まりました。その先駆けとなる今日の礼拝が、大きな神の喜びをいただける場となりますように。そのことを心から祈りつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に聴きたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなげる言葉は「神の御名」というものでした。このローズンゲンでも、幾たびも神の御名について私たちに思い起こさせる聖句が登場しています。旧約聖書だけでも約8,000回登場する神のお名前は、ヘブライ語4文字で表記される「ヤハウェ」と発音されていたであろう言葉です。この神のお名前には、「私はいる」という意味があることを、神御自身が遠い昔にイスラエルの指導者モーセとその民たちに告げられました。
 
私はいる。その言葉は、すべての存在を表す言葉として私たちに知らせるものです。存在とは「ある・いる・なる」という、英語でいうbe動詞が表す意味に相通じます。つまり、①私は神である。②私はあなたがたとともにいる。③私はあなたがたの神となる。という3つの意味であり、神があくまで私たちの神でいてくださるという確固たる約束が、私たちひとりひとりに与えられているというのです。
 
私たちをおろそかにしまいと働いてくださる神、その神の愛は、私たちを生かす機動力となり、私たちは神からいただいた愛をもって、この世界で生きることができるのだ。そのことを救い主イエスは望み、神に祈りをささげ、私たちのためにも祈ってくださいました。
 
この祈りに支えられながら、私たちは新しい一週間の日々を歩むことが許されています。どうかこの七日間のなかで出会う様々な出来事のなかで、神に出会う機会に喜べますように。その喜びを携えて、その旅路を歩むことができますように。心からお祈りします。

26/09/2026

2026.9.26(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ゼカリヤ書9章10節
その支配は海から海へ、大河から地の果てにまで至る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書24章14節
この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は朝から雨模様の仙台です。毎年度秋学期に担当している大学の講義が始まり、今、新幹線のなかからこの黙想をつづっています。新幹線のなかで黙想もへったくりもないのですが(もっと静かな環境でするべきなのでしょう)、御言葉に触れることのできる喜びをかみしめつつ、今日もローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、想いをつづっていきたいと思います。
 
今日の聖句が指し示しているテーマは「神の良い言葉を全世界で分かち合う」というふうに私は受け止めました。神の言葉をいただいたとき、その言葉に感動や慰めを覚えたら、その感じたことを誰かと分かち合いたいと思うのは、ごくごく自然なことと言えるでしょう。
 
昨日、ある大学生がお母さまと一緒に、私の職場でおこなわれているご飯イベントに参加されました。その大学生の方は、キリスト教主義学校に入学されて、キリスト教に触れる機会ができて、大学での素敵な出会いがあるなかで、キリスト教に対して好印象を抱いているご様子でした。そこに、お母さまも一緒にいらっしゃったというわけです。
 
そのお母さまと話をする機会をいただきました。そのなかで、お母さまご自身もこれまでキリスト教に触れる機会がなかったのだそうですが、ひとつひとつの出会う機会のなかで、キリスト教に対する良いものを感じ取っておられるとのことでした。そして、私にこんなことを仰っておられました。「もっと聖書のこととか、キリスト教のことを伝えたら、その話を聞く人っていると思いますよ。私がそうでしたから」。
 
私はとても嬉しい気持ちにさせられるのと同時に、なんか身の引き締まるような思いもしたのです。昔から、とかく「宗教」というと、あやしいとか怖いという印象がどこかにつきまとっているのを、私は当事者として感じながらも、しかし、キリスト教ならばキリスト教が大切にしてきた魅力というものを分かち合いたいと思い続けてきました。だからこそ、「もっと聴く人がいると思いますよ」という言葉に、とても暖かい励ましを受けることができたのでした。
 
全世界に福音(神の国の良いたより)が伝えられるときに、それは何も遠い最果ての地のことだけを指しているのではありません。私たちの身近に、手の届くところにも、神様が与えられる良いものを分かち合うことのできる幸いが、十分に散りばめられているということを、私は自分自身のよき燃料としたいと思ったのでした。翌朝、明けてこの聖句をいただいたときに、昨晩に起きたできごとに、感謝をもって受け止めることができたのでした。
 
今日で一週間も最終日を迎えます。この七日間の旅路が、神様の豊かな守りと祝福のうちにありますように。そのことを心から願いつつ、明日への備えをすることができますようにと祈ります。皆さんの一切にも、神の守りと祝福がありますように。心からお祈りします。

25/09/2026

2026.9.25(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編144編15節
幸いな者、主を神とする民は。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙10章12節
同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
暑い日が続きながらも、空が秋の空になってきた仙台の街です。こうして季節が移ろいゆくのを感じることができるのは、本当にありがたく、感謝なことだなとつくづく感じさせられる朝を迎えることができました。今日も、与えられた命を尊べるようなときでありますように。祈りつつ、ローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、神の御声を聞いてまいりたいと思います。
 
今日の旧新約聖書のことばに共通するテーマは「神を私たちの神とすることへの幸い」というふうに私は受け止めました。「神を神とする」とはどういうことなのでしょうか。神が単に置物のようなものではなく、困ったときの神頼みのようなものでもなく、私たちの生活につねに神が「ともにいてくださる」ことへの深い自覚と感謝を抱くことなのかもしれません。
 
もちろん、困ったときの神頼みが悪いわけでなければ、置物のようにつねに見える場所に神を鎮座しておくことそれ自体が悪いわけでもありません。しかし、願わくば、私たちの生活の中心に、神がしっかりと据えられていること、私たちの心に神が置かれているからこそ、ときどきではなく、いつも神が私たちの生活に関わってくださっていることに喜べる、幸いを感じ取ることができるのではないだろうか。そんな気持ちにさせられたいのです。
 
どんな時でも、私たちは神を知るだけのさまざまな「素材」が散りばめられています。その素材が必ずしも、良い状況だけを示すわけではありません。触りたくない、できれば避けて通りたいような素材も、私たちの生活のなかには多々あるのであって、それらが私の生活を否応なしに襲うときに、私たちは「何を中心にしたらよいのだろうか」と思い悩むこともあるでしょう。
 
だからこそ、好調な時も不調なときも、得意なときも失意にあるときも、私たちは神がすぐそばにおられるからこそ、神に頼り、委ね、教えを受けることがいつでもできるからこそ、どんなときでも泰然でいられるのだ。これが、今日の聖書の言葉で物語られている「幸い」なのだということを改めて受け取って、新しい一日を主とともに歩みたいと思わされたのでした。
 
そんな一日が、今日も私たちの生活を充実したものとしてくださいますように。神にある幸いが、皆さんと豊かにありますことを、心からお祈りします。

23/09/2026

2026.9.23(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編103編2節
私の魂よ、主をたたえよ。そのすべての計らいを忘れるな。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章20節
いつも、あらゆることについて、私たちの主イエス・キリストの名により、父なる神に感謝しなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日でシルバーウィークも最終日を迎えます。今回の連休は、台風の襲来ということもあり、多くの被害があった数日間となりました。大切なものを失ってしまった方々のために、神の慰めを引き続き祈りたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が今日受け止めたいと思ったのは、「神に感謝する」というシンプル、しかし、私たちにとってとても重要なひと言でした。もはや自明のことではありますが、そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私は考えてみました。感謝と対極にある「不平不満」ということについてです。私たちの生活において、私たちのうちから不平や不満をすべて取り除いた時を過ごすことなど、なかなか無いのではないかと思うのは私だけでしょうか。少なくとも私は、ことあるごとに不平や不満を抱えたり、思ったり感じたり、時にはその感情が表出することすらあります。
 
自分の思うとおりにはいかない感情というものは、神への感謝の思いというものを容赦なく削ぐ力というものがあると思います。感謝している暇などないのです。感謝できないのは、神が私自身に不平不満の思いを抱くことに、何の手立てをすることがないからだと、神にその責任をなすりつけてしまうこともあるかもしれません。他責思考をもって、「自分は何にも悪くないのだ」と私たちは思いたくなるのです。
 
そう。今日の詩編の言葉にもあるように、神である主のなされたことを「忘れるな」とうたっているように、私たちはいとも簡単に、神の存在があることそのものへの感謝を忘れてしまうのです。だからこそ、私たちは「忘れないような営み」というのが、本当に必要なのだと思います。そのことを思うときに、私たちは「主イエス・キリストの名によって」という、今日の新約聖書の言葉が指し示す思いこそ、大切なのだと思わされます。
 
イエス・キリストのお名前によってというのは、イエスが私たちのキリスト(命の救い主)となられるために、何を思い、何を感じ、私たちにどのように触れてくださり、言葉と行いを残されたかということを、私たちが聖書の言葉から丹念に聴きとることから始まります。聴き取った声を私たちの心身に巡らせるために、神に祈り、聖霊の助けを求めるのです。そのための時間と機会というものを、積極的に得ていくことで、私たちは「感謝」というものがどういうものか、少しでも考えるきっかけとなれば、こんなに良いことはないのだと思いました。
 
今日の連休最終日が、主にある多くの喜びに感謝できるような一日となりますように。心からお祈りします。

22/09/2026

2026.9.22(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
歴代誌上29章9節
こうして民は、自分たちが自ら進んで献げた物を喜んだ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録4章37節
キプロス島生まれのヨセフは、持っていた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足元に置いた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
台風一過の青空が広がる今日の仙台です。今回の台風では、犠牲者が出たこともニュースを通して知りました。自然災害の恐ろしさを改めて感じるとともに、このことで悲しみや不安を感じておられる皆さまに、神様の慰めと励ましがあることを、心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンを通して与えられたふたつのみ言葉ですが、「自らを喜んで献げる」ということがテーマとして語られている聖句です。このような聖句を取り扱うときには、極めて注意が必要であると、私はつねづね思わされています。そのことに触れて、今日は黙想をつづりたいと思います。
 
自らを、そして自らのものを喜んでささげることは、何ら悪いことではありませんし、むしろ良いことなのだと私は思っています。私もそうでありたいと心から願いつつ、自分自身の生活のなかで、そのように実践できることは実践していきたいと思っているわけですが、「何者かにそのように誘導されて、自分自身を超える分までささげるべく強制される」ことがあってはいけないと、強く思わされますし、実際に、聖書の言葉を悪用して、そのように人々を誤導しているケースが後を絶たないということも、私たちは知っておくべきなのです。
 
旧統一協会による違法献金の実態は、まさにこの構図のなかで語られているものであると言って良いでしょう。それだけではありません。いわゆる「カルト化した教会」と呼ばれるところで、そのような実態が実際に起きていることの相談も受けます。概して、このような団体や教会でおこなわれていることは、指導者的な立場の人から「そうしないことの代償」を提示されるのが常です。「〇〇しなさい。さもなくば・・・」と言ったように、「さもなくば」という言葉が出たら注意が必要です。私たちはあくまで、何者にも誘導されることなく「自発的な判断と決断」によって、そのようになされることが大切なのです。
 
ですから、私たちが「喜んで神に献げる」ということを考える場合、その喜びは、本当に自発的なものによるものなのかということを、じっくりと祈りのうちに考慮することが、何よりも大切なのです。この時に、その判断基準というものが「私の好き嫌い」や「私の気分」だけでそうするのであれば、それはそれで問題なのです。あくまで、神との深い対話を通して、導き出されたものであることが大切なのです。神と私たち個々人との関係は、何者にも邪魔されることはありませんが、その関係性をいかに維持できるかというところに、このような聖書の言葉を考える際のポイントというものがあるのです。
 
「神のみ言葉に聴き、そして祈る。聖霊の導きを大切にしながら、自分自身と神との関係性のなかで、大切なことを判断し、決断していく」ということを、私たちは大切にしたいと思います。そんなことを、今日の黙想としたいと思いました。
 
どうか神が、私たちの姿というものを豊かに導いてくださいますように。そして、今日も主にあって素敵な一日となりますように。心からお祈りします。

21/09/2026

2026.9.21(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
サムエル記上1章27節
主は私が願ったことをかなえてくださいました。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章58節
エリザベトの近所の人々や親類は、主が彼女を大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、主の日の礼拝を楽しまれたことと思います。いただいた御言葉を携えて、今週もその日々を歩んでまいりたいと思います。関東以北では、台風が訪れつつあります。少しでも災害から免れることができますようにと祈るばかりです。そして、シルバーウィークを過ごされる皆さんに、安全が豊かに与えられることもお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から、今日私が受け止めたいと思ったことは、「神は何でもかんでも、私の要求や願いをかなえてくれるわけではない」ということを、いかに肝に銘じることができるか、というところにありました。
 
今日の旧約聖書の言葉は、サムエルを身ごもった母ハンナによる感謝の言葉でした。子が与えられるようにと、ハンナは神に祈り続けました。当時の世界において、子が与えられるというのは、ひとつの祝福のしるしでした。しかし、主とともに忠実にその人生の日々を歩んでいたハンナにとって、子が与えられないというのは、大きな苦しみとなっていきました。そんななかで、神はハンナに子を身ごもるという祝福を与え、かくしてサムエルは誕生しました。
 
この言葉を読むのには注意が必要です。なぜならば、世の中には不妊で苦しむ多くの女性たちがおられるからです。「子が与えられない=神に祝福されない」と、すべてに適用するのは決して正しいことではありません。そのような聖書の読み方は乱暴であると言えるでしょう。これは、ハンナ自身の状況について語られたものですから、私たちにすべてを適用する必要はないと私は考えています。
 
しかし、神とともに歩むことを第一とするなかで、今自分自身が苦しんでいることを神に打ち明けたときに、苦しみを解放させてくださる神がおられるという点については、私たちがぜひ聴くことのできるメッセージなのだと思います。神とともに歩むことで得られる幸いというものは、私たちのタイミングではなく、神のベストなタイミングをもってなされるのだ、ということなのです。
 
逆に、私たちの要求が何でもかんでも神によって叶えられると思ったら大間違いだと、私は自戒を込めて受け入れたいと思います。あくまで、神がどう思われるかということを、私は第一にしたいのです。神とともに歩み、神の御心に聴こうとしないなかで、自分自身の要求を神にぶつけるとしたら、それは身勝手というものなのでしょう。
 
今日の新約聖書の言葉は、洗礼者ヨハネを身ごもり、出産した老女エリサベトについての言及でした。基本的にはハンナと同じことが言えるのだと思います。エリサベトも夫ザカリヤとともに、神とともに、その人生を忠実かつ誠実に歩んでいた人物でした。
 
周囲にどんな評価があろうとも、環境がそうさせなかったとしても、神の御前に誠実であることの大切さというものを、本当に大切にしながら、今日の一日も歩んでまいりたいと思います。一切に、神の御心が明らかにされますように。皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

19/09/2026

2026.9.19(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書57章18節
(神の言葉)
 私はいつまでも争うことはなく
 永遠に怒ることもない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一2章1節
たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。シルバーウィークを前にして、しばらくの休みを楽しまれる方もおられるかもしれませんし、訪れようとしている台風への対策をされておられる方もおられると思います。そして、明日の主の日への備えのときを持っておられる方もおられるでしょう。そのすべてに、神の守りがありますことを心から祈りつつ、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉に聴きたいと思います。
 
神は怒るが赦される方でもある。
その怒りというものは、人を奈落の底に陥れることを目的としたものでは決してないことが、今日の旧約聖書に選ばれた言葉の言わんとしていることなのだと、私は受け止めました。「許せない感情」ということについて、黙想をつづりたいと思います。
 
私たちは誰でも、許せない感情というものを抱えながら、この世界で生きているのだと思います。聖書に「許しなさい」という言葉がところどころに登場するのは、私たちもよく知っている事でしょう。しかし、私たちはそのような勧めがあるのにもかかわらず、なかなか許せないのです。怒りを抱え込んだまま、人に対してその思いをぶつけようとするのです。
 
私は、なにもかも有耶無耶(うやむや)にして、ただ無条件に許せばよいとは全く思っていません。さまざまな被害をこうむった方々の悔しさや怒りというものは、ときには正当なものとしてみなされるべきだからです。神もときに怒るくらいですから、怒りということがすべて悪などということはありえないのです。
 
しかし、私たちはここで考えたいのです。今、私が抱えている怒りは、本当に正当なものなのだろうかと。隣人という他者との関係性のなかで、その関係性を回復すべく、正当で健全な怒りを表現するのであれば、その怒りは正当なものといえるでしょう。しかし、そうでない場合もあるのです。単なるうっぷん晴らし、自分の気の済むまで、人を完膚なきまでに叩きのめすことを目的とする怒りであれば、そのような怒りは空しさしか生まないのだと私は思います。
 
神は怒ります。しかし、その怒りを永遠のものとしないと語っておられます。あくまで、赦しへと向かうための怒りなのであって、その根底には神の深い愛というものが脈々と流れていることを、今日の旧約聖書の言葉は私たちに伝えているのです。
 
私たちもまた、自分自身がその神の想いに応えようとしているのだろうかということを、自問自答することはとても大切な営みであると言えるでしょう。許せない感情というものをいつまでも抱えながら、それを人にぶつけ、自分の納得いくまで、その人を叩き潰そうとするならば、どうして、私たちのために罪をかぶって、その命を投げ捨てられた救い主イエスがおられるのでしょうか? そんなことを一週間を振り返る問いとして、今日一日考えていきたいと思わされました。
 
皆さんにとって、この一日の営みが、神の赦しというものを深く考え、感謝できるような時でありますように。心からお祈りします。

18/09/2026

2026.9.18(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書23章35節
あなたがたは、隣人や兄弟との間で互いに、「主は何と答えられたか。主は何と語られたか」と言わなければならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書26章75節
ペトロは「鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
秋分近くなって、少しずつ秋めいた天気になってまいりました。とはいえ、まだまだ暑さが続くこの頃ですし、また台風が列島を襲おうとしています。少しでも安全が守られることを心から祈りつつ、今日も御言葉に聴き、心を整えて一日へ向かいたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、ずばり「御言葉『に』聴く」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
昔、私は「御言葉『に』聴く」という言葉に、とても違和感を抱いた時がありました。随分昔の話です。『に』ではなく『を』なのではないかと思ったのです。「御言葉『を』聴く」のほうが、日本語的にしっくりいくのではないかと感じていました。
 
しかし、今では、やはり「御言葉『に』聴く」なのだということを強く感じています。そのことを、今日の聖書の言葉からなおのこと、あらためて感じさせられたのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、「主は何と答えられたか、主は何と語られたか」ということが記されています。私たちが行動する時に、私たちの意志もさることながら、やはり「私たちの神はこの状況において、何をお考えになられているか」ということを、尋ね求めることが必要なのだと、私は強く感じます。
 
私たちの経験不足、また自分の利だけを考えたい気持ちが、ついつい神の望まれることを踏みつけてしまうことはないでしょうか。私は誤解を恐れず申し上げれば、そうしてしまうことがことごとにあることを振り返ります。そして、そこに「神の思い」を引き寄せて言動してしまうのです。
 
しかし、そのような私の行動の結末は、あまり良い結果をもたらさないことが多くあるのを痛感させられます。あの時に、心をしずめて、身を低くして、神の指し示しというものを大切にするべきだったと反省させられるのです。ついつい自分の願望というものが勝ってしまうのです。
 
だからこそ、神に尋ね、神に求め、神の言葉に耳と心を傾けることが、やはり大切なのだとあらためて思わされるのです。そういう意味で言えば、御言葉「に」聴くという表現は、まことにふさわしいのだと感じます。御言葉「を」聴くということが決して悪いわけではないのですが、その時の主体は、やはり「私自身」になってしまうのです。健全に聴けたら良いのですが、そうでない場合もあるからです。
 
あくまで、私たちの命を守り、支え、歩むべき道を指し示し、そこを歩かせてくださる幸いを味わうために、神にお伺いを立てる気持ちをもって、神の言葉に聴くのだと。今日も、そのような心が、一日を幸いへと導いてくださる神を実感できるのだと、信じたいのです。
 
私たちは鼻息の荒いことを豪語しつつも、やはり失敗してしまうことの多い存在です。今日の新約聖書の言葉が示しているとおり、イエスの一番弟子ペトロがそうでした。絶対に裏切らないと言いつつ、その直後にイエスを裏切ってしまいました。ペトロがハッと気づかされたのは、イエスの言葉を思い出したときでした。
 
しかし、その失敗は、ペトロのその後において、大いに活かされることになりました。ペトロが流した涙、悔しさ、やるせなさが、その後の彼の人生において、「キリストを伝える」原動力になりました。それも神の言葉を思い出し、神の言葉に聴くということの大切さを、彼自身が心の底から実感したからなのでしょう。
 
神の言葉に聴き、そして神に祈ることの循環が、私たちの言動を健全なものへと神が導いてくださる。そんなことを胸にしつつ、今日の一日を歩むことができますように。皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

17/09/2026

2026.9.17(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編142編8節
私の魂を牢獄から引き出してください。あなたの名に感謝するために。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録12章6節
ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神に献げられていた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は黙想をつづる時間を確保することができず、お届けできませんした。気を取り直して、少し遅くなりましたが、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ言葉は「牢」でした。牢獄とも書かれていますし、今日の新約聖書の言葉には投獄されていたペトロについて書かれています。つまり、何らかの理由によって閉じ込められた状態を指していることがわかります。
 
今週に入って、もちろん充実した日々を過ごしていることは間違いないのですが、何か心にひっかかるものを感じながら過ごしていました。自分自身の心の許容範囲が明らかに狭まっていることを、痛感させられるようなできごとがいくつもありました。そのときに、普段だったら笑ってやり過ごせるはずなのに、なかなかそういうところに自分自身を持っていくことができない、そんな己の姿に嫌気がさしてきたのです。
 
まさに「自分の心が投獄され、牢獄のなかに閉じ込められているような感覚」に陥ってしまったのです。時間が経てばそのような感覚が薄れていくのだと思いつつも、また心狭く思ってしまうような出来事が続いてしまうために、なかなかそういうところから脱出できない自分自身があります。実は、今も現在進行形だったりします。
 
そんなときに、今日のローズンゲンの言葉は私の心境にフィットするものでした。「あなたの名に感謝するために」と詩人は歌いました。あなたの名、つまり、神である主のお名前には、「あなたとともにいることで、あなたの神となる。私はいるのだ」という言葉が、私に迫ってきたのです。そのことに感謝することすら薄れてしまっている自分自身を思い、申し訳ないやら、ありがたいやら。そんな温かい気持ちに包まれたのでした。
 
私のためにも祈ってくださる方が大勢おられますが、その筆頭に立って私のために祈ってくださる主イエスがおられるのだと。そんな救い主が与えられているのに、くよくよしている自分自身を省みては、本当にごめんなさいと謝りました。しかし、同時にありがとうございますと感謝することもできました。ここにこそ、たとえ牢獄のなかにあっても、それでも感謝をささげることの幸いを、あらためて思わされたのでした。
 
今日も与えられた一日のすべてが、そのような神の守りによって支えられますようにと祈ります。皆さんの一日にも、神がともにいてくださいますように。お祈りします。

15/09/2026

2026.9.15(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
出エジプト記14章14節
主があなたがたのたえに戦われる。あなたがたは静かにしていなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書13章13節
(イエスの言葉)
連れて行かれ、引き渡されたとき、何を言おうかと心配してはならない。その時には、あなたがたに示されることを話せばよい。話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、私たちの一日の生活を導かれる神が、その言葉を通して、私たちを祝福のうちに導いてくださいますように。そのことを祈りつつ、ローズンゲンに示された聖書の言葉に、耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の聖書の言葉はまさに、私自身に語りかけているものであると、私は深く感謝しました。「主が戦われる。だから、あなたは静かにしていなさい」という言葉は、私自身に、神とともにあるということに誠実に向き合う思いというものを、新たにしてくださったと心から信じるものです。
 
詳しいことをここで述べることは控えますが、私自身、この数年間にわたって、あることで自分自身のあり方というものを、深く問わされる日々が続きました。時に悩み、苦しみ、そのことに自分自身が開き直ることを戒めつつ、ただ謙遜の思いをもって、神のなさることに期待して、自分に与えられた務めというものを、淡々かつ忠実に果たそうとしてまいりました。私を取り巻く環境の不条理さに、自分自身悔やみつつ、自分ではどうすることもできない出来事に、どのように向き合って良いのか随分苦悩を感じ続けてきました。
 
しかし、今思うことは、「神はご自分の公正さをもって、この世界に判断をくだされる」ということです。どんなに世の中が騒いでも、そのことで心傷つくことがあったとしても、神は私に気付きを与え、言葉にならないうめきというものをも必ず聞いてくださり、神の御心があらゆるところに明らかにされる日が必ず来ることを信じ続けてまいりました。
 
その結果がどのようなものになるのか、私にはまだわかりません。しかし、私に求められることは、変に自分自身を荒立てることなく、そのことで他者を振り回すことなく、神の御前にただ立って、神のなされることに心をしずめてただ待ちつつ、自分に与えられた分を誠実に生きることなのだと。それが、今日の旧約聖書の言葉の意味なのだと受け止めました。
 
かつて、私が牧会していたある教会員の方に、この聖句を示したことがありました。その方も、ずいぶん不条理な目にあって苦しんでおられました。どうして良いかわからないと生きた心地がしなかったということでした。私は、主にあって誠実に生きるならば、必ず主は戦ってくださるから大丈夫と、聖句の意味を分かち合い、ともに祈ったことがありました。その結果、その不条理さはいつの間にかに消え去っていました。最近、そのことを振り返る機会があり、当時苦しみを抱えていた方とともに喜び、神に感謝したのでした。
 
私たちは聖霊の導かれるがままに、誠実に生きることが求められているのだと思います。しかし、その聖霊の導きというものも、ついつい我田引水のように利用してしまうこともあるかもしれません。それが自らの「ゆがみ」によるものだとも気づかずにです。だからこそ、神の御前に謙遜に生きることを確かめるために、神の言葉が私たちに与えられ、聖霊の助けが与えられているのでしょう。
 
今日も聖書の言葉が与えられたことに感謝しつつ、一日を過ごすことができますように。皆さんとともに生きてくださる神が、大きな祝福を注いでくださいますように。心からお祈りします。

14/09/2026

2026.9.14(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書31章31節
その日が来るー主の仰せ。
私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録2章39節
(ペトロの言葉)
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、また、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださっている者なら誰にでも、与えられているのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、主の日の礼拝の喜びを、それぞれの教会や集会で楽しまれたことと思います。私も、午前は代務牧師を務めている教会での働きのあとに、夜は私の勤務先であるエマオの夕礼拝、そして自宅に戻ったときには、ちょうど宮城野教会の祝福(祝祷)に間に合いました。その後、礼拝に出席された方のために祈りのときを持ったりと、とても充実したひと時を過ごすことができました。また、新しい一週間も感謝しつつ毎日を過ごすことができそうです。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖句が言わんとしているのは、「新しい契約に生きる」ということであると私は受け止めました。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
昨日の「エマオ夕礼拝」を担当されたのは、仙台市内にある「荒井キリスト教会」の牧師である、福岡真一先生でした。赴任時期が一緒なのと、その他のつながりもあり、良いお交わりをいただいています。その福岡先生によって取り次がれたのは、マタイ福音書の最後の部分、いわゆる「大宣教命令」と呼ばれる部分の聖句でした。
 
大宣教命令をどのように考えるのか。その後、聖霊降臨の恵みを受けた弟子たちは、方々へキリストの救いを宣べ伝えました。なかには、パウロのように旅行しながら宣教する者もいましたし、まさに地の果てまでキリストが伝えられることによって、私の住む日本にも福音が伝えられたわけです。
 
福岡先生は、それらの宣教活動は「海外宣教ではなく『世界宣教』なのだ」とおっしゃっておられました。とても興味深い言葉です。一見すると同じような言葉にも思えますが、福岡先生曰く、世界宣教とは洋の東西、遠近の問題ではなく、身近にいる誰にでもキリストの救いが伝えられること。距離こそ近くても、精神的には遠く離れている人にでも救いを伝え、分かち合うこと。それこそ「世界宣教」なのだということを、説明しておられました。その言葉に納得し、腑に落ちました。
 
つまり、今日の新約聖書の言葉は、これから世界宣教がなされようとするなかにあって、その宣教は「誰に対するものなのか」という問いに、明確に応えているものであると私は思いました。「私たちの神である主が招いてくださっている者なら誰にでも、与えられているのです。」と、ペトロは説教しました。誰にでもなのです。私たちがえり好みできるような話ではないということなのです。それだけ、私たちの神は救いの門戸というものを存分に広げる契約というものを、私たちに与えてくださったということなのです。
 
今日の旧約聖書の言葉には「新しい契約」とあります。契約は更新されていきます。しかし、破棄されることもあります。私たちの神は、人間に対して契約を破棄して、その関係性を反故にされることなく、今日まで救いの道を与え続けてくださったことを思います。そんな神のなさることに心から感謝しつつ、今日という一日も過ごしてまいりたいと思いました。
 
どうか皆さんの一日にも、そのような神の守りが豊かにありますように。心からお祈りします。

13/09/2026

2026.9.13(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編9編10節
主は虐げられた人の砦
苦難の時の砦。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙1章27節
みなしごや、やもめの苦労を見舞うこと、それが純粋で汚れのない父なる神への礼拝です。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。神が、この七日間の旅路をどのように導いてくださるのでしょうか。特に、心に、実際に生活のあらゆることで重荷を担わされている方々にとって、神がどのように私たちの生活に働いてくださるのか、そんなことを思い描きながら、今日もローズンゲンを通して与えられたみ言葉に、耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
神は私たちの砦(安全)となってくださる。このことが、今日の旧約聖書・詩編の一節が言わんとしているメッセージです。私たちが苦しさを覚えるとき、その苦しさをすべてご存知である神が、私たちを全力で守ってくださるというのです。この力強い保証の言葉に、私たちはどれほど共感し、また同意することができるでしょうか。
 
昨晩、仙台のある教会で本日の務めを果たされる、大嶋重徳牧師とお連れ合いの裕香さんと久々にお会いして、とても楽しい交わりの時をいただきました。私の苦しかった時代をよくご存知のふたりであり、思い出話もすることができました。その時に「いろいろ苦しかったこともあったけれど、今は恵みでしかない」ということを、お互いに近況を交わしながら、神が守ってくださっていることを、ともに喜び合うことができて、感謝でした。
 
こういうものなのだと私は、今日の聖句に触れながらあらためて感じさせられたのです。苦しさで心も思いも体もいっぱいいっぱいなときは、なかなか神の恵みを感じることができないかもしれません。しかし、いつかは神とともにある恵みというものを実感できるときがやってくる。そんなことに感謝できる日がやって来ることを思えば、今日の詩編の言葉はやっぱり真実なのだと思わされてならないのです。
 
その得られた恵みというものを、私たちは決して強いることなく、押し付けることもなく、隣人とともに分かち合うことができるのだというのが、今日の新約聖書の言葉にも表れているような気がするのです。私たちが今日、世界中でおこなわれる主の日の礼拝で出会うさまざまな出来事や人間模様のなかで、互いに神の恵みを分かち合えるような一日であり、また一週間の始まりでありたいと、心から願わされてなりません。そんなことを胸にして、新しい一週間を歩むことができますようにと祈ります。
 
皆さんの新しい一日、一週間の一切に、私たちを安全に守られる神の恵みが、ともに、豊かにありますように。心からお祈りします。

11/09/2026

2026.9.11(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
歴代誌上13章8節
ダビデとイスラエルの人々は皆、神の前で力の限り、歌を歌い、琴、竪琴、タンバリン、シンバル、ラッパを奏でた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一5章16節
いつも喜んでいなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は、あのテロから25年を迎えた祈念すべき一日です。2001年9月11日、アメリカ同時多発テロが起きました。多くの命が奪われるとともに、あの日からテロへの反撃が始まっていきました。人の命がいとも簡単に奪われることへの恐怖、それを正当化しようとする人々の思い、そんなことを目にしながら、聖書から語ることへの意味というものを、深く考えずにはいられませんでした。あの日、台風が過ぎ去ったあとの不気味な夕焼けが東京の空を包んだ記憶とセットとなって、テロのことを思い出すのです。そのことを憶えつつ、今日の聖書の言葉に心を傾けたいと思います。
 
今日の聖句が語ろうとしているメッセージは、「賛美の喜びを響かせる信仰者の姿」というものでした。9.11を覚えるのには、あまりにも「似合わない」聖書箇所であると私は感じました。世界中を震撼させたあのテロの状況下にあって、私たちは究極的に神に賛美の思いを向け、神とともにある喜びを感じることができるでしょうか? むしろ逆なのではないかと私は思えてならないのです。
 
私たちが喜ぶことができないとき、神はそれをお許しになられるのでしょうか。神はそんな私たちの真実というものをよくご存知であることを信じたいのです。泣く時にともに泣いてくださる神だからです。悲しみに、はらわたがちぎれるほどの思いで私たちとともにある方、それが私たちの神であり、イエスが私たちに示されたことでした。
 
私たちは「いつも」喜ぶことはできないかもしれない。今日のテサロニケ書の聖句が私たちに訴えるように、私たちがつねに喜べたらどんなに良いだろうと願いつつも、それができない時、それでも私たちに切なる願いがあることを、神はちゃんと見てくださっていることを信じたいのです。いつかは喜べる日が来ることを私たちが望むときに、神は必ず時宜にかなった助けというものを、必ずお与えくださるのだということを、心の底から信じたいのです。
 
悲しみや怒りを抱いている自分があるからこそ、神が与えてくださる喜びに感謝できるのだ。そんな思いをもって、今日の一日も、神とともに歩むことができますように。皆さんの主にある守りと祝福を、心からお祈りします。

10/09/2026

2026.9.10(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
箴言16章32節
怒りを遅くする人は勇者にまさり
自分の心を治める人は町を占領する人にまさる

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録14章12節
ここに、神の戒めを守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐がある。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も私たちの生活のすべてを御存知であり、時に応じてその生活を守られる神である主が、皆さんとともに、豊かにおられますように。特に、痛みや苦しみのなかにあるすべての方々に、格別に神が臨んでくださいますように。そのことを祈りつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句から、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の聖句から、私があらた、あらためて受け入れたいと思ったのは、「自分自身の感情をコントロールすることの幸い」というものでした。いかに、私自身の心の揺れ動きというものを理解しながら、それに見合った冷静かつ情熱的に生きるということへの幸いについてです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、箴言(ことわざ集)の一節でした。「怒りを遅くする」こと、「自分の心を治める」という二者は、抜き差しならぬ関係にあることを想わせる聖句です。
 
怒りを遅くすることは、なにもやせ我慢することではないと私は思っています。怒りの感情を神に診てもらうという営みを大切にすることによって、私たちは結果的に怒りを遅くすることができるのだと思います。ついつい自分の感情で思いも心もいっぱいになってしまうと、特に理不尽な扱いを受けたときなどは、そのような冷静さを欠いてしまうことがあるからです。
 
私の昔を知っている人は、その通りだと思われますが、私は自分自身の怒りの感情をコントロールすることが本当に難しい人間でした。自分の痛点をさわられるようなことがあると、怒りが一気に爆発するということを繰り返してきました。
 
しかし、そんなことは結果的に、何の益ももたらさないことに気付かされました。そのことを深く反省しながら、自分が今こういう感情を抱いているのだということを意識しながら、神に聴き、聖書の言葉に聴き、祈りながら、その場をなるべく冷静に過ごそうと自分自身に言い聞かせました。結果として、それは自分自身にも、周囲にも良いものを残しました。
 
今日の新約聖書の言葉は、「イエスに対する信仰を守り続ける忍耐」とあります。理不尽なことがわが身を襲っても、すべてを御存知である神が公平かつ公正に、私たちのありようを取り扱ってくださることに深い信頼を寄せることこそが、信仰の本質なのであって、その結果が忍耐という出来事につながっていくのだと、今日の聖句を通して感じ取りました。
 
自分自身が短絡的にならずに、深い視座をもって自分自身の感情を治めながら、今日の一日を歩むことができますように。皆さんの一日にも、そのような姿を祝福してくださる神が、ともに豊かにおられますように。心からお祈りします。

09/09/2026

2026.9.9(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ネヘミヤ記13章2節
私たちの神はその呪いを祝福に変えてくださった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙3章13節
キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木に掛けられた者は皆、呪われている」と書いてあるからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
全国各地で、豪雨によってさまざまな被害が出ています。今日も東海地方で不便と不安を強いられている方々がいることを思うと、それらのすべてに守りがあることを祈らずにはいられません。そのことを祈りつつ、今日の聖書の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ言葉は「呪い」です。この言葉をどのように解せばよいかということを思うのです。単に、誰かが誰かをうらむあまり、その人物に災いが降りかかるようにと願うことを、私たちは呪いという言葉を用いて表現するかもしれません。しかし、今日の聖句にじっくりと触れてみますと、呪うという行為よりも、呪いの源となるもの、つまり「災いそのものの根源」と考えることができるのではないかと私は思うのです。
 
今日の新約聖書の言葉であるガラテヤ書の一節で、「キリストは私たちのための『呪い』となって」とあります。キリストは私たち一人ひとりが負う災いから解放されるために、私たちに代わって、その災いを一手に背負われた。それは、私たちが負うべき呪いを、キリストが負ってくださった出来事に他なりませんでした。
 
「律法の呪い」とあります。律法は私たちを神の民とする保証のようなものでした。しかし、それには遵守という契約の責任が生じたのでした。そのような責任があるのにもかかわらず、私たちはそれをなすことができませんでした。私たちを保証するはずの律法が、私たちを縛る「呪い」になってしまったのです。それを、御自身の血肉をもって、呪いの象徴である木(十字架)にかけられることによって、その呪いをかき消してくださったのがキリストだったというのです。
 
神は、私たちを呪いを抱えたままにされることを、決してお許しになられないのです。呪いを祝福へと変える神。これが、今日のローズンゲンのみ言葉そのものが指し示すメッセージです。このことを信じつつ、今日の一日を歩むことができますように。皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

08/09/2026

2026.9.8(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編32編10節
主に信頼する人は慈しみに囲まれる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録22章21節
主イエスの恵みがあなたがたすべての者と共にあるように。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、神様の良いものが充分に皆さんとともにありますように。そのことを祈りつつ、ローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、聖書そのものの最後を飾る一節です。神による救いのみわざがすべて完成して、神の国とその平和が余すところなく全地に及んだ時、その最後に実現されることを、未だそこに至っていない世界に対して語られます。そこには、私たち一人ひとりの希望が、救い主イエスによる祝福とともに約束される言葉こそが、今日の新約聖書の聖句として選ばれたものです。
 
ヨハネの黙示録を読むと、決して喜ばしい出来事だけではありません。神とともに歩む道には多くの苦難があり、闘いがあり、多くの妨害があります。つらいことばかり続くのもまた確かです。しかし、そのような苦しみのなかで、神のみ心は着実確実に進んでいく。そんな約束と希望に満ちあふれた幻が語られるのも、ヨハネ黙示録の魅力と言ってもよいでしょう。
 
その集大成として、私たちに神の平和が与えられ、インマヌエルの主がともにおられることがしっかりと保証されているのです。これこそ、私たちが今を、そして未来を生きるいしずえなのだと、私は心から信じて生きたいのです。これこそ「主に信頼する者」という、今日の詩編の言葉につながっていきます。
 
たとえ苦痛をともなったとしても、その苦痛をやわらげるのは神のいつくしみなのだと。それに囲まれる私たちの姿がここにあるのだと信じて歩むことの幸いを、今日も感じとることができますようにと祈ります。インマヌエルの主イエスがともにおられることこそ、今日を生き抜く土台になってくださるのだということに希望を寄せつつです。
 
どうか、主イエスの恵みが、私たちひとりひとりとともにありますように。心からお祈りします。

07/09/2026

2026.9.7(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編30編2節
私はあなたを賛美します、主よ。
あなたは私を深淵から救い上げて下さいました。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書5章41~42節
イエスは子どもの手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は朝から悪天候に見舞われている仙台の街です。関東から東北にかけて、暴風雨が襲うことが予想されています。少しでも安全が守られることを祈りつつ、今日の聖書の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の旧約・新約聖書の言葉から、私が受け止めたいと思ったのは、「神は私たちのどん底から救い上げてくださる方である」というものでした。今日の詩編の言葉では「深淵」と呼び、福音書のなかでは、幼い娘を亡くしてどん底のなかにある状況があったことがうかがえます。そのようななかで、神がその状況を決して忘れずに救い上げてくださったこと、「起きなさい」というイエスの宣言によって、娘は息を吹き返したこと。これが、聖書の物語る神の真実です。
 
しかし、私たちはどん底から天空を見ようとする時に、その光があまりにも遠すぎるあまり奈落の底から這いあがることをあきらめてしまうかもしれません。苦しみの殻を破ることができないのです。苦悩の渦に巻き込まれてしまいます。自分の力ではどうすることもできないことを痛感させられるのです。
 
だからこそ、私たちを引き上げてくださる方の存在がどうしても必要なのです。それが神であり、イエスであり、聖霊の助けなのです。なにしろ神は、私たちを引き上げてくださることを何よりもお望みなのです。しかし、そのことを阻むものがある。阻むものがあるとすれば、それは私たちの世界におけるさまざまな「ゆがみ」がそうさせるのだと私は思えてなりません。このゆがみこそ、私たちが神を十二分に信頼することをできなくさせる原因に他なりません。
 
そんな私たちに、今日も神は近づいてくださる。豊かに臨んでくださる。そんなことを心から信じつつ、今日という一日を神とともに歩んでまいりたいと思います。苦しみから私たちを解放させてくださる神が、今日も私たちに素敵な機会を与えてくださいますように。皆さんの平安を心からお祈りします。

06/09/2026

2026.9.6(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書51章7節
人のそしりを恐れるな。彼らの罵りにおののくな。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二1章7節
神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。主の日の礼拝から始まる七日間の旅路が、神である主とともに歩むことのできる幸いに包まれますように。そのことを心から願いつつ、祈りつつ、今日与えられた聖書の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンによって示されたふたつの聖句は、私たちがついつい抱いてしまう「人への恐れ」について語られたものです。そのなかで、これらの言葉は一貫として「神の霊に込められた助けによって、恐れから解放されることの幸い」を告げているものであると私は受け止めました。
 
詳細を語ることは控えますが、私自身、さまざまな「恐れ」に取り囲まれることがありますが、そのすべては「人間関係」によるものであると自認しています。特に、自分の思いがうまく伝わらないとき、相手とのコミュニケーションが円滑でないと感じるとき、ときに誤解を受けたり、批難を浴びたりするときには、過度に恐れを感じることがあるのです。何も、これは私だけのことではなく、人間ならば誰でも感じることなのではないかと思ったりもするのです。
 
そのような私たちの人に対する恐れを、神への「畏れ(おそれ)」、つまり、神への畏敬の念を抱くことこそが、神が私たちに恐怖をあおったり、臆病にさせることから解放してくださり、今日の新約聖書の言葉にもあるように、「この世を神とともに生き抜く力、神と隣人に対するアガペーの愛、そして物事を短絡的にではなく、十分に思慮をともなったものとしてじっくりと捉えていく思い」を、神が与えてくださることに、私は信頼しつつ、神とともに歩む旅路へと出発したいと願わされました。
 
私事ですが、いみじくも本日50歳の誕生日を迎えることができました。50代という新しい10年のスタートを切る一日にあたって、今日与えられた聖書の言葉に感謝して、神とともに歩んでまいりたいと思います。やがて、主が許されて60歳の誕生日を迎えることができるならば、その10年間を振り返って「神を敬い畏れることの幸い」というものを味わうことができるように、歩んで生きたいと思った次第です。
 
新しい一週間、その初日である今日の一日が、神のそのような守りと祝福を感じられるようなときでありますように。皆さんの主にある平安を心からお祈りします。

05/09/2026

2026.9.5(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編25編3節
あなたを待ち望む人も皆
恥を受けることがないように、
訳もなく裏切るものが恥を受けるように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書8章13節
岩の上に落ちたものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと落伍してしまう人たちである。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日で一週間も終わりを迎えました。この七日間の旅路を振り返ることのできる今日の一日が、神である主とともに歩む幸いに包まれることを心から願いつつ、また、明日の主の日への備えの一日となりますようにと祈りつつ、今日のローズンゲンを通して与えられた聖書の言葉に、耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉に、「恥」という言葉が登場します。昔、ルース・ベネディクトという文化人類学者が、第二次世界大戦が終わった翌年に『菊と刀』といいう本を出版しました。大戦中、日本人の行動パターンの研究分析をおこなった彼女は、その集大成としてこのような本を出版するにいたったわけですが、このなかで、ベネディクトは、欧米などキリスト教文化圏にある意識は『罪の文化』であるのに対し、日本人は『恥の文化』であることを著しています。
 
つまり、罪の文化とは、罪というものが「神と向き合わない態度」のことを指すことから、つねに神との関係性のなかで自分自身のあり方をとらえ、自らの行動パターンにするのに対して、日本文化はつねに周囲の評判であるとか視線というものなかで「私が恥を受けることがないか」というところに、行動パターンを重視するといったものです。
 
もちろん、このベネディクトの説は賛否両論あります。しかし、日本人が「恥」という言葉を考えるときに、周囲の人々との関係性のなかで、自分のプライドが傷つけられ、恥を受けていないだろうかということに、どうしても思いが集中してしまうという点においては、私も大いに納得するところですし、私自身も多少なりともそのような傾向があるように感じることもあります。
 
そんな視点をもって、今日の聖句を読むならば、ここでいう「恥」とは、あくまで神との関係性を大切にしようとする生活を営もうとする時に生じる、さまざまな不利益を被ることを恥というのであって、そのことを抜きにした神不在のなかで、単に自分自身のプライドが傷つけられたということゆえの恥のことを言っているのではないことが分かります。
 
私たちは、神との関係性というしっかりとした「根」を大切にしたいと思います。私たちはこの根の部分を大切にしているでしょうかと、自分自身に問いたいのです。この根がしっかりしていないと、簡単なことで私たちは倒れてしまいます。今日の新約聖書の言葉が指し示すところの、御言葉を聴いてその時は喜びにあふれるけれど、ちょっとしたことで簡単に倒れてしまうという種まき人のたとえ話が物語っていることに、共通するのだと私は受け止めました。
 
私たちの心が神によってしなやかにされていないと、いつまでも岩地のままでいてしまう。ちょっとしたことで傷つき、恥をかき、そのことゆえに神と向き合う幸いであるとか、喜びというものが見いだせないならば、それは私たちひとりひとりを生きにくくさせてしまうことにつながってしまうのだと、私自身自戒しつつ、今日の聖書の言葉に聴くことができました。
 
神の言葉によって、少しでも私自身の心がしなやかにされますように。恥という言葉の意味を理解しつつ、神との関係性を少しでも豊かにしてもらうことができますように。そんなことを祈りつつ、一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、神である主が豊かに臨んでくださいますように。お祈りします。

04/09/2026

2026.9.4(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編113編3節
日の昇る所から日の沈む所まで主の名は賛美される。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録14章7節
天と地、海と水を創造した方を礼拝せよ。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨晩から所用で東京に滞在しています。与えられた務めを心を込めて果たしてまいりたいと思いますが、その務めにあたって、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、私に大きな励ましを与えるものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句に共通するのは「すべてを平和のうちに治められる神である主を賛美し、礼拝することの幸い」であると私は受け止めました。私たちは誰もが平和を願います。その平和を心から願うために、すべてを治められる神を「礼拝する」ことの大切さを思わされます。礼拝とはなにも、日曜に教会で行われている礼拝のこと「だけ」を指すわけではありません。私たちがどんな時にも、神に心を向けて祈り、賛美をささげ、そして、神のみ言葉に耳と心を傾けるとき、それも何の引けも取らない礼拝なのだと私は思うのです。
 
私たちのあいだには、なかなか平和が訪れることがありません。平和の名のもとに平和と逆行するような行動を繰り広げることもあるからです。そんなときに、私たちは自分の正義だけを貫き通そうとしてがむしゃらになるのではなく、その前に正義の主である神に礼拝をささげ、自分自身の心を神に整えてもらいながら、たとえ自損するようなことがあったとしても、この世界の平和のために神に用いてもらうために、神の正義にあやかりながら私たちが生きようとしたときに、平和というものが豊かにあふれるのだと、私は心から信じたいのです。
 
自力だけですべてをなそうとする態度から、神のみ心に聴き、神の望まれることを胸にして生きる幸い。そのために礼拝というものがどんな時にも私たちに与えられていることに感謝しつつ、今日という一日を歩むことができますように。皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

03/09/2026

2026.9.3(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編141編8節
主よ、あなたに向かって目を上げます。
私はあなたを信じます。
私を死へと葬り去らないで下さい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一15章55,57節
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の棘はどこにあるのか。私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださる神に、感謝しましょう。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
おととい昨日と、黙想をつづる時間を確保することができませんでした。楽しみにしてくださっている皆さんへ、深くお詫びいたします。その日ごとにローズンゲンに示された聖書の言葉に触れて、書きたいことはたくさんあったのですが、なかなかそれが叶いませんでした。
 
今日の旧約・新約聖書の言葉に共通するのは「死」という言葉でした。そのことをめぐって、今日は黙想をつづりたいと思います。
 
私はまだ、物理的な「死」を意識する年齢ではないかもしれないし、実際に死を意識するような機会は乏しいかもしれません。しかし、精神的に「死」を彷彿させるような出来事は多々遭遇していることを思わされます。精神的な死とは、「もうだめだ」と思ってしまう一瞬です。希望もなにも見い出すことができず、落ち込んでしまうという一瞬がいろいろあるということです。
 
今週はそのことを意識させるような出来事がいくつかありました。今週月曜・火曜と、かねてから準備をしていた、地域の「カルト問題研修会」に主催者側として、また参加者のひとりとして参加してまいりました。私もカルトサバイバーだったひとりとして、カルト宗教を通して今まで、精神的な死というものを経験してきましたので、死というものがなにも、物理的なものだけを指すわけではないということを、今回の研修を通して改めて気づかされました。
 
また、詳細を語ることはここでは控えますが、今週、私は今まで向き合い、取り組んできたことにひとつの区切を迎えることになります。数年間にわたってそのことに向き合わなければならないことは、痛みと苦しみの連続でした。まさに死を思い起こさせるような出来事とも言えたのは、決して大げさではありませんでしたが、その区切りを迎えるにあたって、とても緊張しているし、いろいろな感情が交錯しています。そんな時に、今日のような聖句が与えられたことを、心から感謝するばかりです。
 
私は、今日の聖句を通して、「神はすべてを御存知なうえで、公正をもって取り扱われる方なのだ」ということを改めて確信しました。そのことを信じる信仰というものが、今、私に問われているのだと思いますし、死に打ち勝って復活された救い主イエス・キリストがおられるという事実を、私は今、自分の心身に染み込ませて今日の聖句に触れることができました。それはなにも、自分のことを棚に上げて鬼に金棒的な考えをしているのではありません。そうではなく、あくまで公正に物事を取り扱われる神が、この私とともにいてくださるのだという恵みを胸に刻みつつ、今週の残りの時を過ごしていきたいと、気持ち新たにさせられたということでした。
 
私たちに大なり小なり襲い来る「死」という出来事に、うろたえることなく、おびえることなく、今日という一日を神とともに歩むことができますように。祈りつつ、過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、そのような主が豊かに臨んでくださいますように。心からお祈りします。