くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編25編3節
あなたを待ち望む人も皆
恥を受けることがないように、
訳もなく裏切るものが恥を受けるように。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書8章13節
岩の上に落ちたものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと落伍してしまう人たちである。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日で一週間も終わりを迎えました。この七日間の旅路を振り返ることのできる今日の一日が、神である主とともに歩む幸いに包まれることを心から願いつつ、また、明日の主の日への備えの一日となりますようにと祈りつつ、今日のローズンゲンを通して与えられた聖書の言葉に、耳と心を傾けてまいりたいと思います。
今日の旧約聖書の言葉に、「恥」という言葉が登場します。昔、ルース・ベネディクトという文化人類学者が、第二次世界大戦が終わった翌年に『菊と刀』といいう本を出版しました。大戦中、日本人の行動パターンの研究分析をおこなった彼女は、その集大成としてこのような本を出版するにいたったわけですが、このなかで、ベネディクトは、欧米などキリスト教文化圏にある意識は『罪の文化』であるのに対し、日本人は『恥の文化』であることを著しています。
つまり、罪の文化とは、罪というものが「神と向き合わない態度」のことを指すことから、つねに神との関係性のなかで自分自身のあり方をとらえ、自らの行動パターンにするのに対して、日本文化はつねに周囲の評判であるとか視線というものなかで「私が恥を受けることがないか」というところに、行動パターンを重視するといったものです。
もちろん、このベネディクトの説は賛否両論あります。しかし、日本人が「恥」という言葉を考えるときに、周囲の人々との関係性のなかで、自分のプライドが傷つけられ、恥を受けていないだろうかということに、どうしても思いが集中してしまうという点においては、私も大いに納得するところですし、私自身も多少なりともそのような傾向があるように感じることもあります。
そんな視点をもって、今日の聖句を読むならば、ここでいう「恥」とは、あくまで神との関係性を大切にしようとする生活を営もうとする時に生じる、さまざまな不利益を被ることを恥というのであって、そのことを抜きにした神不在のなかで、単に自分自身のプライドが傷つけられたということゆえの恥のことを言っているのではないことが分かります。
私たちは、神との関係性というしっかりとした「根」を大切にしたいと思います。私たちはこの根の部分を大切にしているでしょうかと、自分自身に問いたいのです。この根がしっかりしていないと、簡単なことで私たちは倒れてしまいます。今日の新約聖書の言葉が指し示すところの、御言葉を聴いてその時は喜びにあふれるけれど、ちょっとしたことで簡単に倒れてしまうという種まき人のたとえ話が物語っていることに、共通するのだと私は受け止めました。
私たちの心が神によってしなやかにされていないと、いつまでも岩地のままでいてしまう。ちょっとしたことで傷つき、恥をかき、そのことゆえに神と向き合う幸いであるとか、喜びというものが見いだせないならば、それは私たちひとりひとりを生きにくくさせてしまうことにつながってしまうのだと、私自身自戒しつつ、今日の聖書の言葉に聴くことができました。
神の言葉によって、少しでも私自身の心がしなやかにされますように。恥という言葉の意味を理解しつつ、神との関係性を少しでも豊かにしてもらうことができますように。そんなことを祈りつつ、一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、神である主が豊かに臨んでくださいますように。お祈りします。
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