くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書23章35節
あなたがたは、隣人や兄弟との間で互いに、「主は何と答えられたか。主は何と語られたか」と言わなければならない。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書26章75節
ペトロは「鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、おはようございます。
秋分近くなって、少しずつ秋めいた天気になってまいりました。とはいえ、まだまだ暑さが続くこの頃ですし、また台風が列島を襲おうとしています。少しでも安全が守られることを心から祈りつつ、今日も御言葉に聴き、心を整えて一日へ向かいたいと思います。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、ずばり「御言葉『に』聴く」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
昔、私は「御言葉『に』聴く」という言葉に、とても違和感を抱いた時がありました。随分昔の話です。『に』ではなく『を』なのではないかと思ったのです。「御言葉『を』聴く」のほうが、日本語的にしっくりいくのではないかと感じていました。
しかし、今では、やはり「御言葉『に』聴く」なのだということを強く感じています。そのことを、今日の聖書の言葉からなおのこと、あらためて感じさせられたのです。
今日の旧約聖書の言葉は、「主は何と答えられたか、主は何と語られたか」ということが記されています。私たちが行動する時に、私たちの意志もさることながら、やはり「私たちの神はこの状況において、何をお考えになられているか」ということを、尋ね求めることが必要なのだと、私は強く感じます。
私たちの経験不足、また自分の利だけを考えたい気持ちが、ついつい神の望まれることを踏みつけてしまうことはないでしょうか。私は誤解を恐れず申し上げれば、そうしてしまうことがことごとにあることを振り返ります。そして、そこに「神の思い」を引き寄せて言動してしまうのです。
しかし、そのような私の行動の結末は、あまり良い結果をもたらさないことが多くあるのを痛感させられます。あの時に、心をしずめて、身を低くして、神の指し示しというものを大切にするべきだったと反省させられるのです。ついつい自分の願望というものが勝ってしまうのです。
だからこそ、神に尋ね、神に求め、神の言葉に耳と心を傾けることが、やはり大切なのだとあらためて思わされるのです。そういう意味で言えば、御言葉「に」聴くという表現は、まことにふさわしいのだと感じます。御言葉「を」聴くということが決して悪いわけではないのですが、その時の主体は、やはり「私自身」になってしまうのです。健全に聴けたら良いのですが、そうでない場合もあるからです。
あくまで、私たちの命を守り、支え、歩むべき道を指し示し、そこを歩かせてくださる幸いを味わうために、神にお伺いを立てる気持ちをもって、神の言葉に聴くのだと。今日も、そのような心が、一日を幸いへと導いてくださる神を実感できるのだと、信じたいのです。
私たちは鼻息の荒いことを豪語しつつも、やはり失敗してしまうことの多い存在です。今日の新約聖書の言葉が示しているとおり、イエスの一番弟子ペトロがそうでした。絶対に裏切らないと言いつつ、その直後にイエスを裏切ってしまいました。ペトロがハッと気づかされたのは、イエスの言葉を思い出したときでした。
しかし、その失敗は、ペトロのその後において、大いに活かされることになりました。ペトロが流した涙、悔しさ、やるせなさが、その後の彼の人生において、「キリストを伝える」原動力になりました。それも神の言葉を思い出し、神の言葉に聴くということの大切さを、彼自身が心の底から実感したからなのでしょう。
神の言葉に聴き、そして神に祈ることの循環が、私たちの言動を健全なものへと神が導いてくださる。そんなことを胸にしつつ、今日の一日を歩むことができますように。皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。
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