07/07/2026

2026.7.7(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ヨナ書2章7節
わが神、主よ
あなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録9章34節
ペトロが、「アイネア、イエス・キリストが癒やしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日から愛媛県松山市に滞在しています。昨日、日本基督教団四国教区のお招きで、セミナーの講師の務めをいただきました。昨晩は従姉の家で楽しい時を過ごしました。私にとっては数少ない親戚のひとりですので、積もる話もあり、とてもゆっくりと過ごすことができました。ですので、今朝は遅い目覚めでした。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「命の回復」です。大きな魚に飲み込まれたヨナ、そして、身体が思うように動かなかったアイネアという人が、神の癒しによってその麻痺が解消された出来事。そのいずれも、生きるということ(つまり命)が回復されたことを物語っています。生理的に心臓が再び鼓動を開始したということでなく、生きる希望が回復したことも、それは何の紛れもない復活体験なのだと私は受け止めています。
 
ヨナは、神の指し示しに抗いました。あくまで自分自身の欲求にしたがってわが道を歩もうとしました。しかし、ヨナの思いはそれこそ思い通りに運びませんでした。大きな魚に飲み込まれて、暗闇のなかをさまよわなければなりませんでした。しかし、神はご自分の言うことを聞かなかったからといって、ヨナを決して見捨てたりはされなかったのです。
 
ヨナは神の憐れみと慈しみによって、魚の腹のなかから吐き出されました。暗闇からの解放であり、この世界で神とともに生きる機会がふたたび与えられた一瞬でした。ヨナの告白が神に向けられます。しかし、ヨナは今後一切神の道からそれたわけではありませんでした。人間はそうして、神についたり離れたりを繰り返しながら、最終的に私の人生をともに歩んでくださる神の不変を理解するのではないでしょうか。
 
大切なのは、そのような私たちの歩みのなかで、私たちは神の真実というものに視線を注ぐことができているだろうか、ということであり、そのために私たちは、神の言葉に耳と心を傾け、己の偽らざる姿を省みて、神とともに生きる一日を「再び始める」ことなのだと思います。だからこそ、そのような時間を確保するというのは、本当に重要なことなのだと、私は今日の聖句を通して受け取ることができました。
 
皆さんにとっても、この一日がまた豊かなものとなるためにも、神の言葉に聴き、祈り、己の姿をじっくりと吟味することができますように。皆さんの神とともに歩まれるその時に、神からの大きな祝福と平安がありますように。心からお祈りします。

06/07/2026

2026.7.6(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
申命記5章32節
あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおり、守り行わなければならない。右にも左にもそれてはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書12章26節
(イエスの言葉)「私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
先々週の日曜以来、しばらくお休みしていた黙想を、今日から再開したいと思います。先週の月曜、左眼の手術を無事に受けることができました。2回の術後検査で経過は順調とのことで大変安心しております。この場を借りて、私の眼のことで祈ってくださった皆さんへ、心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。また、今後ともこの黙想を通して、皆さんと神のみ言葉を共有できる嬉しさを噛みしめつつ、お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、神に従う生き方というものを、私たちに示されている内容を、私たちは知ることができます。旧約聖書の言葉は、指導者モーセとその民イスラエル人が、40年にわたる苦難の旅路を経て、その最終部分に差し掛かったとき、モーセによって語られた「遺言」の一節です。
 
右にも左にもそれることなく、神が与えた掟を守り行うことの大切さが、モーセによって語られました。その掟とはなんでしょうか。それは具体的に神が民たちに与えた律法の言葉全体を指すわけですが、その中核部分にあるものを、モーセは神の名前である「主(ヤーウェ)」をあえて用いることで、その核心について述べていることがわかります。
 
神の名前であるヤーウェには「私は(あなたがたとともに)いる」という意味があります(出3:14)。喜びのときも苦しみのときも、神はご自分の民たちを大切にして、その旅路を見放すことなく導かれました。そこには神の人間に対する深い御自身の愛が込められていることを思えば、神と民は「神の示される愛」によって関係性が保たれ、そのことが中心となって数々の律法の言葉、つまり掟が与えられたということになります。
 
ですから、神がモーセを通して、掟を守り行うとは、神の愛から私たちが右にも左にもそれてはならないのだという、強いメッセージ性が込められているということを、私たちはしっかりと受け止め、受け入れることが大切なのです。人間の独りよがりな愛のことではありません。神が人間に示された愛が何かを知り、理解し、その愛をもってこの世で生きていくという、私たちの決意が要求されるのです。
 
だからと言って、そのことをなかなか実践できないのが私たちの偽らざる現実であるとも言えるでしょう。神の愛で他者を愛せない自分がいます。自分自身だけが気持ちよく感じる愛で、隣人に要求したり支配したりするのです。神の愛とそのことをはき違えてしまう私たちの姿があるのです。だからこそ、私たちは神の知恵と力を十分にいただきながら、その生き方にチャレンジすることが大切なのです。
 
「私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。」とイエスは弟子たちに言われました。イエスに従う生き方とは、イエスの言動に示された「価値観」を、自分自身の価値観とすることです。これは大きなチャレンジなのです。この世で生きて、その価値観で生きるということが、必ずしも「得」をするわけではありません。報われないことも多々あるでしょう。しかし、イエスはそのような生き方を通して、世界に平和を与えられました。私たちの世界が神の平和によって支えられるのであれば、私たちはイエスの価値観に聴き、理解し、受け入れ、そのことを自分自身の生き方にすることが、やはり神によって求められているのです。
 
たとえ、それが自分の思うようにいかなかったとしても、その意志さえあれば、神は必ず助けてくださいます。そのことを私たちは、心の希望として、今日の一日を主とともに生きることが大いに許されているのです。私が今日得た黙想とは、まさにその希望に生きるということでした。
 
どうか、皆さんの一日が、主にあって素敵な時となりますように。心からお祈りします。どうぞ健やかな今日の日をお過ごしください。私もそのように生きたいと思います。