31/07/2026

2026.7.31(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書9章6節
見よ、私は我が民を火で精錬し、試練を与える。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書22章40節
祈りなさい。誘惑に陥らないために。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日で7月も最終日を迎えます。この一か月間、私たちはどのような日々を過ごすことができたでしょうか。それらの時を振り返りつつ、今日も与えられた神の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「私たちに訪れる試練の多くは、誘惑によるものである」ということでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
誘惑とは何だろうか。そんなことを考えます。ひと言でいえば「神がイエス・キリストを通して差し出してくださる方法以外を選択することが、私たちにとって幸いをもたらすのではないか」と感じ、思い、行動にいたる私たちの心境なのではないかと私は思いました。
 
神がイエス・キリストを通して差し出される方法は、時には魅力的なことを私たちに提示しますが、その反面、即効性がなく、現実的でもなく、実効性もないように見えることがあります。私の思うように神が動いてくださらない。そのことに私たちは待つことができず、どうしても耐えることができないのです。だからこそ、私が「気持ちよくなる方法」を見つけ、そのことに忠実になろうとする。これこそ「誘惑」が指し示す意味なのだと私は思うのです。
 
しかし、その方法を選択することは、いっ時の役得というものを私たちは経験するかもしれませんが、その思いが永続するとは決して限らないということは、歴史と私たちの経験が証明しているのではないだろうかと思えてならないのです。私たちが空しさを感じ、だれかの尊厳を犠牲にしてでも、私たちは大切にしなければならないことを踏みにじり、それを踏み台にして自分自身だけが幸せになろうとする。そこには平和は決して存在しないのです。
 
だからと言って、私たちの幸福というものが決してふいにされてもならないことも事実です。なぜならば、私たちに幸福を誰よりも願っておられるのは、神御自身であることに間違いないからです。だからこそ、私たちは神の願いとともに歩めるような幸福を味わうために、神が提示される方法によって、自分自身の生き方を神に「精錬」していただく必要なあるのだと。今日の旧約聖書の言葉が述べている通りです。
 
そのためにも、私たちは祈ることを忘れないでいたいと心から願います。神の言葉に聴き、尋ね、そして祈るのです。神との深い対話を通して、私自身の姿というものを吟味しつつ、自分自身が神の品性によって練られていくことを信じ、私自身の姿を見つめつつ、誘惑に対峙しながら神とともに歩むことが、私たちにとっての真の幸いなのだということを確認したいのです。
 
イエスがなぜ「祈りなさい」と弟子たちに告げられたのか。神の言葉とともに祈りというものがセットとなって、私たちは出会う日々の出来事のなかで、神に精錬されていくことを喜びたい。これが今日、私が受け止めたいと思ったメッセージでした。
 
どうか、神が私たちの心を守り、誘惑によらなくても生きていくことのできるような者でありますように。そのことを心から願いつつ、今日も一日、神からの平安と祝福をいただきたいと祈ります。皆さんの一日にも、主がともにいてくださることを実感できますように。心からお祈りします。

30/07/2026

2026.7.30(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ダニエル書11章32節
自分の神を知る民は揺るがず行動する。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録3章7,10節
聖なる方、真実な方がこう言われる。「あなたは忍耐について私の言葉を守った。だから試練の時に、私もあなたを守ろう。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
たとえ揺さぶられたとしても、芯さえしっかりとしているならば、立ち続けさせてもらえるのだ。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのはこのことでした。大地震によって多くの建物が倒壊している現状のなかで、このような言葉をつづるのは極めて不適切であるかもしれません。連日の報道を通して私の思いと心のなかで、そんなイメージがわいてきたのでした。
 
私たちは、絶対に「揺れない」ことはありません。大なり小なり、揺さぶられる経験というものは誰でもするのです。今日の旧約聖書・ダニエル書にある「揺るがず行動する」の意味とは、何があっても微動だにしない態度のことを指すのではないと、私は考えています。
 
そうではなくて、さまざまな要因によって揺さぶられる私たちの姿があったとしても、そのうえで、私たちは「何を芯とすることができるのか」というところに、思いを寄せる者でありたいと私は思うのです。では、その芯とは何でしょうか。それは、私たちを守ってくださる神御自身に他なりません。
 
私たちの中心を一本筋を通すように芯となってくださる神が、私たちの揺れ動きというものに耐えることができるように、しっかりと受け止めてくださる。今日の新約聖書の言葉である「試練の時に、私もあなたを守ろう」という、イエス・キリストの言葉に、私たちは心を寄せ、信頼することが許されているのです。
 
そのような思いをもって、私たちの揺れを一緒に担ってくださる神がともにおられることを、私たちの今日を生きる喜びとすることができますように。熊本の地で苦痛を味わっている方々のために祈りつつ、皆さんの主にある祝福を心よりお祈りします。

29/07/2026

2026.7.29(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編42編4節
昼も夜も、私は涙を食物とする。
人は日夜私に言う
「あなたの神はどこにいるのか」と。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙1章13~14節
(パウロの言葉)私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他のすべての人に知れ渡り、主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになったのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日、熊本県を震源とする大きな地震がありました。猛暑のなか、ライフラインが寸断されていることで、生活に苦痛を覚えられる方も多くおられることに心を痛めています。また、残念ながら命を奪われた方々や、その家族の悲しみを思うと、さらなる痛みを覚えずにはいられません。適切な助けが速やかになされることを祈りつつ、何とかして助けにならないかと思わされつつ、今日のローズンゲンを開きました。まさに、今日のみ言葉は、そのことをの如実に訴える聖書の言葉であると感じずにはいられなかったのです。
 
「あなたの神はどこにいるのか」と、人々は叫びます。私の心のうちもその叫びで大いに痛みます。誰も悪いわけではない。ただ自然のいたずらが人の生活を容赦なく襲い、そして苦しめるのです。この自然を目の前にして、私たちはどうすれば良いのか、ただそこに茫然と立ち尽くしてしまう。そんなことを想わされます。私が現在住んでいる仙台の地も、15年前に同様の経験をしました。私はその場に当時いませんでしたから、それを当事者として語ることはできません。しかし、今ともに生活を営んでいる大切な友たちからは、神がおられるから、神を信じているからと言って、即座に心を神に寄せることが難しかったという話も耳にします。この苦しみのなかで、神が応えてくださることを待ち望みながらもです。
 
昼も夜も涙を食物として生きることのつらさがあります。しかし、その神は必ず私たちのことを見捨てたりはしない。あてもなく、目に見える保証はたとえなかったとしても、私たちはそのことだけに、一縷の望みというものを託しつつ、与えられた日々を生きるしかないのかもしれません。そして、その望みというものを共有してくれる友たちの目に見える助けがあってこそ、神を具体的に見ることができるのかもしれません。だから、できることがあるのであれば、何とかして少しでも助けになりたいと心に願わずにはいられないのです。
 
望みを決して忘れない。そして望みを神に叫び、訴え、神のなさることにすべてを委ねつつも、私にできることを、神の真心をもって誠実に果たす。それがひとひとへの慰めへとつながっていきますようにと願います。今日の新約聖書の言葉は、投獄されていたパウロの姿勢が、人々に希望を与えたことが記されています。熊本は遠い地ではありますが、私がそのことを決して他人事にはせず、希望をもって祈り、そして心を寄せ、何か働きが許されるならば、その働きに有形無形のかたちで参加すること。これが、今日の聖書の言葉から聞こえたメッセージでした。
 
今日も、神である主の励ましと慰めが、ともに豊かにありますように。心からお祈りします。

28/07/2026

2026.7.28(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編44編9節
私たちは日夜、神を誇り
あなたの名にとこしえの感謝を献げます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙5章19節
主に向かって心から歌い、また賛美しなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も一日が、私たちの神である主の守りと平和が、私たちひとりひとりと豊かにありますように。そのことを祈りつつ、今日のローズンゲンを通して与えられた聖句から黙想をつづりたいと思います。
 
賛美するとは誇ること。そんな言葉が、今日の聖句を通して私のなかで浮かんだテーマでした。誇るとは何でしょうか。国語辞典を開きますと、「立派だと思う。誉れとする。また、その思いを言葉や態度にあらわす。」(広辞苑第七版)とありました。つまり、今日の詩編のことばにもあるように「神を誇る」とは、まさに、神を立派な方であることを嬉しく思う思いであり、その思いが私たち一人ひとりの人生における、言動にしっかりと表れるような生き方を営むことこそ、神を誇るということの真意なのです。
 
今日の聖書の言葉ではありませんが、この思いを使徒パウロは、次のように表現しました。「誇る者は主を誇れ」(コリントの信徒への手紙一1章31節他)。自分自身の限界ある富や力、権力や社会的地位を、さも自分自身の独占物のように見なして、その自分自身の姿に陶酔するような誇りではなく、そもそもそのことを与え、導き、私たちを幸いな者としてくださる神こそ、立派な御方なのだということを、私たちは心の底から喜ぶことができるのだということを、私たちは神を誇ることによって明らかにすることができるというのです。
 
その喜びのかたちこそ、賛美という手段によって私たちは表現することができるのです。だからこそ、賛美するとは誇ることであると、私はあらためてこの聖句から受け取ることができました。主がなされたことを、私たちは心から喜び、歌うことによって、主に向かって賛美することを可能とするのです。
 
私たちは賛美をするときに、何に感動するでしょうか。その音楽性のすばらしさや歌詞に込められたその意味が、私たちの心を鼓舞したり、慰めたりすることが往々にしてあるでしょう。しかし、そこには「私たちの好み」の問題が入り込むこともあるかもしれません。私たちには、どうしても好き嫌いというものが存在します。そのことを私たちはどうしても否定することができないのです。
 
だからと言って、好きだからそれが万人にとって素晴らしい、嫌いだから素晴らしくないなどという理由はどこにもありません。私たちは、自分自身の慣れ親しんだものや向きというものを「最高のもの」とみなせば、それは神を誇る手段というよりは、自分自身に対する誇りを助長するために、賛美を用いることになりかねません。
 
このことは、私たちの嗜好性というものを決して否定しているわけではありません。神は素晴らしい御方であるということを的確に表現しているものであるならば、そこには良し悪しなどというものは存在しないということを積極的に肯定していきたいということなのです。どのような賛美の歌を歌っても、そこには主を誇りとする大きな喜びがあるということを、私たちは心の底から感じ取ることができるように、歌詞に込められた言葉をもって、音楽性をもって、大切にしていきたいのです。そのように、私は今日の聖句を通して、受け取りたいと思ったのでした。
 
時に応じて、私たちが神を心から賛美することによって、主を誇るということを実質的に表現することができますように。そして、賛美から導かれる私たちの生き方というものを、大切にすることができますように。心からお祈りします。

27/07/2026

2026.7.27(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編34編16節
主の目は正しき人に注がれ
その耳は彼らの叫びを聞く。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書27章19節
ピラトが裁判の席についているとき、その妻が彼のもとに人をやって言わせた。
「あの正しい人に関わらないでください。その方のために私は今日、夢で非常に苦しみました。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
主の日も終わりました。今日から土曜までの週日の日々もまた、皆さんにとって神とともにある生活において、豊かな祝福を感じることのできるものでありますように。そのことを祈りつつ、今日の聖句に心を寄せてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「正しさ」でした。私たちの神の正しさ、そして、その正しさを私たちに示されるために、私たちのもとに神から遣わされた救い主イエスの正しさが、今日の聖句を通して、私たちひとりひとりに与えられています。
 
私たちは、自分自身の生活において、「正しさ」というものについて、どのようにとらえているでしょうか。私たちは生まれながらにして、正しさというものを身に付けているとは思いますが、しかし、その多くは、私たちが育った環境と出会った人々、影響を受けた物事によって形成されていくのだと私は思っています。その形成されたものが、私たちが生まれながらにして抱いている正しさというものと融合されることで、自分なりの正しさというものへの観念が生まれていくのだと思うのです。
 
ですから、正しさに対する私たちの思いは千差万別とも言えるでしょう。しかし、この多様性は、良い方向というよりは、むしろ正しさと正しさの衝突を生み、人間関係に亀裂が生じることで、さまざまな差しさわりを生んでいるような気がしてならないのです。この世は大体、「自分が正しい」と思って、その正しさに従って生きています。誰だってそうです。ここで問題になるのは、自分自身の正しさを貫き通すことで、多くの痛みを生じさせる可能性がいくらでもある、ということなのだと私は思います。
 
今日の聖句は、神の正しさ、イエスの正しさについて、それをめぐる私たち人間がどのように向き合って言ったらよいのかについて、ひとつの示唆というものを与えているような気がしてなりません。「神の正しさを神の正しさとして受け入れ、神の所在なき私の正しさを神の正しさにすり替えない態度」というものこそ、同じ正しさによって、人と人とが生きていくためになくてはならない姿勢なのだと、私はぜひ受け止めたいのです。
 
そのために、私たちは、聖書の言葉から神の正しさとは何かを学びつつ、その正しさが人の尊厳を奪ったり、傷つけたりしないことをしっかりと心に刻みつつ、出会う人ひとりひとりに接し、その交わりを通して喜びを体験することが大切なのだと思うのです。その過程のなかで、自分自身の正しさというものが、本当に神の正しさを体現したものなのだろうかということについて、自問自答し続けることが、大切な営みなのだと。私は今日の二つの聖句をとおして、そのことを今週のウィークデイを生きるための意識したいこととして、歩んで行きたいとあらためて思わされました。
 
どうか、皆さんの生活もまた、神の正しさによって生きる幸いというものを豊かに味わうことができますように。心からお祈りします。

25/07/2026

2026.7.25(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編68編6~7節
みなしごの父となり
やもめの裁き手となるのは
聖なる住まいにいます神。
神は孤独な人を家に住ませ
捕らわれ人を幸福へと導かれる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二4章14節
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日で一週間の旅路も最終日を迎えました。今日の一日が、明日の主の日に向かう備えの一日となりますように。この七日間に起きた出来事を振り返りつつ、今日も与えられたみ言葉に、耳と心を傾けていきたいと思います。
 
今日のローズンゲンを通して選ばれたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「私たちは決して孤独ではない」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書・詩編のことばに記されているのは、孤児の父となり、未亡人の裁き手となる神についてでした。親を亡くし、配偶者を失った者たちの孤独を、私たちの神は親となり、裁き手となってくださると詩人は歌いました。
 
裁き手とは、公平に物事を取り扱い、その人が不利益をこうむることのないように、対処してくださる役割を持つ存在のことを指します。もちろん、この場合の裁き手とは、孤独なものが孤独であり続けるがゆえに味わわなければならない不利益から、人々を解放してくださるという意味で用いられていますから、まさに、私たちの神がそのように、人間の孤独から解放してくださる方なのだということを表しているわけです。
 
それは私たちにとって、大きな慰めになるに違いありません。
 
私たちは日々の生活、人と人とのかかわりのなかで、多種多様な孤独を味わうことがあるでしょう。そのときの空しさというものは、私たちの安心に容赦なく攻撃を仕掛けるのです。人の集団のなかで、わいわいと騒ぐことがあったとしても、心がぽっかりと穴が開く経験というものを、私たちはしたことがないでしょうか。いろいろな幸せの機会に恵まれても、私の心の穴を埋めることができない時も、往々にしてあるものです。
 
しかし、それでも私たちは決して孤独ではないというのです。神の慰めが私たちを手当てするのです。キリストが私たちのために痛んでくださったという事実が、私たちの痛みや傷というものを守り、これ以上傷がさらされたり、さらに傷が広がらないように軟膏でしっかりとガードし、ガーゼのような柔らかい布を当てて、傷の回復に当たらせてくださる。これが神による慰めに他なりません。
 
私たちもこの七日間の生活を通して、大小さまざまな傷を負ったかもしれません。疲れそのものが私たちにとっての傷かもしれません。しかし、新しい週の夜明けとともに、その傷は、神が語りかけられる言葉と、聖霊の助けによって回復へと向かわせてくださる。そのことを十分に受けるために、今日の一日が良き備えの時となるように、私たちは祈りつつ、与えられた一日を過ごしてまいりたいと思います。
 
どうか、皆さんの新しい一日もまた、神からの豊かな慰めを感じ取り、それを心地よく受ける機会となりますように。心からお祈りします。

24/07/2026

2026.7.24(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ヨブ記9章10節
神は偉大なことをなさり、究め難く
その驚くべき業は数えきれない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二4章14節
主イエスを復活させた方が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと共に御前に立たせてくださると、私たちは知っています。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日午後から、30度を下回り、涼しい陽気の仙台です。今日は雨の一日の予想です。梅雨に戻ってしまったような感じもしますが、雨が緑をうるおすこともまた恵みなので、そんな一日に感謝しながら、与えられた時を過ごしたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日、私が受け止めたいと思ったのは、「神のなさることの不思議さと偉大さ」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
義人ヨブは、みずからに災難がこれまでもかと降りかかった時に、それでも自分に命を与えられる神をほめたたえました。そして「神のなさることは究め難い」と、ヨブは神をそのように見ていたことが、今日の旧約聖書の言葉に記されています。ヨブは、悪魔のいたずらによって、神から祝福されたことへのしるしとしての財産や家族を、ことごとく奪い去られてしまいます。それどころか、ヨブ自身の健康までもが奪われてしまいました。
 
そのような時に、私たちはどのように考えるでしょうか。神がおられるならば、なぜそのような苦しみに遭わなければならないのかと、自分の境遇をうらみ、神の無力さというものを感じることもあるでしょう。それでも、ヨブは「神は偉大なのだ」という、かつての記憶をかき消すことは決してなかったのです。
 
ヨブは、自らのかつての記憶のなかで、しっかりと神のなさることは、人間のちっぽけな知識の範囲では想像もできないくらいに、素晴らしいものなのだというところに、自分自身の確信を置いていたのでしょう。だからこそ、苦難の中でも、それを励みとして生きることができた。今日の聖句は、そのようななかで語られたヨブの神に対する告白であったのです。
 
私たちは、このヨブの姿勢に聴きたいのです。実際に、私たちは、より明らかにされた「神からの救い」というものを、イエス・キリストによって得ることが大いに許されているのです!イエスを犠牲として惜しみなく差し出しただけではなく、死からの復活というできごとを通して、神が与えられた命というものを決して無駄にしない神の人間に対する姿勢というものが、私たちひとりひとりに明らかにされたのでした。これこそ、「神の偉大なみわざ」そのものなのだと。
 
今日も、私たちの命を活かしてくださる神が、ご自分の偉大なみわざを私たちに明らかにして、それを見せてくださるのです。もし、そのようなことを感じられない私があるならば、必ず神は良きように導いてくださるということを、私たちの希望として生きていきたいのです。今日の聖句を通して、私が受け取りたいと思ったメッセージはそのようなものでした。
 
どうか、今日の一日も、皆さんの一切に恵みを雨を降らせてくださる神が、平安と祝福を注いでくださいますように。心よりお祈りします。

23/07/2026

2026.7.23(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編88編9~10節
私は閉じ込められて、逃げることができません。目は苦しみのあまり衰えました。主よ、私はあなたを日ごとに呼び求めます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録3章2節
すると、生まれつき足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」と呼ばれる神殿の門のところに置いてもらっていたのである。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、暑さのなかにあっても、私たちの健康が神によって豊かに守られますように!
 
今日のローズンゲンによって選ばれたふたつの聖句に共通するテーマは「弱さのなかにあって」と私は受け止めました。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
私たちのうちに「弱さ」を感じることがあるでしょうか。それは日常茶飯事のことであるかもしれません。日々出会うさまざまなことで、私たちは弱り果ててしまうのです。体の弱さ、心の弱さ、意志の弱さ、さまざまな弱さが私たちを襲うときに、少しでも弱さから脱却したいと願うからこそ、心身を鍛えようとするのは、私たちの世界では決して珍しいことではありません。
 
しかし、どんなに鍛えても、ある程度の強さを手に入れることができたとしても、究極的かつ完全に弱さから逃れきることはできないのです。ときどき、自分自身の弱さというものに気付かされたとき、私たちは何とも言えない空しさというものを痛感させられることがあるのではないでしょうか。そのことに悩み苦しむ私たちの姿に気付いてしまうのです。
 
私自身も、そのようなことにしばしば見舞われます。弱さに取り囲まれたときに、焦燥感であるとか、孤独感であるとか、そのようなものが私の心を襲います。健康が損なわれて、身体に痛みが生じるときに、この痛みから脱することができるのだろうかと、痛みを感じる不安に苛まれるのです。
 
今日の聖書の言葉は、そんなときだからこそ、神の助けを必要とした詩人ダビデの訴えがあったことを、私たちは聴きとりたいのです。神に十二分に祝福されて、何不自由ない生活を営んでいたダビデ王ですら、自分の弱さに気付き、その弱さにがんじがらめにされる苦しみを味わいました。そんななかで、ダビデは自分のすべてを知っていてくださる神に呼びかけました。毎日毎日呼びかけたのです。
 
私たちはダビデのように、神につねに助けを求めることができないかもしれません。しかし、そのきっかけはいくらでも与えられます。のちに使徒ペトロとヨハネによって脚力の差しさわりを取り除かれた男のようにです。今日の新約聖書の言葉は、そんな男が生活のための最低限の施しを得るために、神殿の門前に横たわっていたことが記されています。
 
彼にとって施しを受けることは生きるために絶対に必要なことでした。弱さのなかでできる精一杯のことでした。しかし、神は彼の弱さを根本的に解消されました。神は施されること以上に、人生を活かす道を与えられました。この神の出来事に、私たちは、どんなに頑張っても克服できない私たちの限界を超えてくださる、神の恵みというものを見ることができるのだと、私はあらためて思わされたのでした。
 
今日も、私たちの弱さをすべて理解してくださったうえで、私たちとともに生きてくださる神がおられます。その神とともに歩む皆さんの幸いが、存分にありますように。心からお祈りします!

22/07/2026

2026.7.22(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
出エジプト記34章10節
すると主は(モーセに)言われた。「あなたと共にいる民は皆、主の業を見るであろう。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書15章31節
群衆は、口の利けない人がものを言い、手の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を崇めた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も暑い一日がやってきました。比較的涼しいと言われている仙台の街ですら、昨日の最高気温は35.6度でした。私がまだ幼い頃は、どんなに気温が上がっても30度を超えることがなかったので、日本全体が気温上昇しているのだなと改めて思わされました。今日も、皆さんの健康が守られますように。そのことをお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「主のみ業を見る幸い」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
先週の水曜、私たちの教会のメンバーの方が神の御許に召されました。先月、病床洗礼を受けた方でしたが、やはり教会員である姪御さんの祈りと、ご家族の深い理解もあって、病床洗礼へと導かれました。その後、意識がもうろうとするなかにあっても、日々穏やかに過ごすことができたのは、その方を知る周囲の方々にとっては、大きな慰めになっただろうと思ったのです。
 
葬儀には、親族の方々が参列されました。その多くが、キリスト教葬儀は初めてということでした。私は、自分たちの信じている神、そして、キリスト教という宗教が、決して得体の知れないものではないということを知っていただくには、私自身の姿勢というものが問われていると強く感じました。そして、心を込めて葬儀を司る機会をいただきました。
 
葬儀が終わってから、「初めてキリスト教葬儀というものを経験したけれど、思った以上に良いものでしたね」という感想をいただきました。こういうときに、真心を込めて携わることができた自分自身を振り返って「良かった」と思うのですが、大切なのは、その「良かった」という思いを与えてくださったのは、他ならぬ神御自身であったということを、感謝のうちに思うことができました。
 
神は、亡くなられた方を通して、御自身が人々を慰め、励まし、平安と祝福を与えてくださるということを、葬儀という悲しみや寂しさ、ややもすると抹香臭さやじめじめした雰囲気すら与える機会においても、私たちに与えてくださるのだ。これこそ「神のみわざ」なのだと思えてならないのです。
 
今、神を信じていようがいまいが、神は私たちにそのように働きかけてくださいます。それに私たちひとりひとりが「気づいた」時にこそ、神のみわざを見、そこに喜びと幸いを確認することができるのだと。そのことを、今日の聖句を通して、あらためて感じとることができたのでした。
 
そのような神のみわざが、今日も皆さんの心に響き渡りますように。一日の主にある平安と祝福をお祈りします。

21/07/2026

2026.7.21(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書66章10節
エルサレムと共に喜び祝い、
彼女のことで喜び躍れ。
彼女を愛するすべての人よ。
彼女と共に大いに喜べ
彼女のために嘆いていたすべての人よ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書19章37節
いよいよオリーブ山の坂にさしかかられたとき、弟子の群れは皆喜んで、自分の見たあらゆる御力のことで、声高らかに神を賛美し始めた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
日本では夏の三連休が終わり、日常に戻られた方も多くあるかと思います。酷暑と言われるなかですが、どうぞ健康が守られるように、お祈りします。私が働く仙台宮城野教会では、おととい昨日と、年に一度の「教会修養会」が持たれました。普段じっくりと学ぶことができない聖書の言葉に、耳と心を傾けつつ、参加者との良い交わりが与えられて、本当に感謝でした。気持ち新たに、教会の新しい歩みを神の助けによって踏んでまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉を通して、今日私が受け止めたいと思ったのは「賛美」についてでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書でも旧約聖書でも語られているのは、神の人間に対する愛や慈しみが込められたその「みわざ」に対して、私たち人間の喜びであるとか感謝が、私たちを感謝へと駆り立て、その表現方法として、賛美が豊かに用いられるということです。
 
私たちは、その賛美を、音楽というかたちを通して、表現することが多くあるでしょう。別に賛美は歌の方法を通してでなくても、行うことのできるものです。嬉しい気持ちを神に向けることができれば、そのすべてが賛美であるからです。しかし、私たちが賛美と言えば、それはしばしば音楽のかたちを通して明らかにされるのです。
 
私たちが誰でも、賛美の歌を歌えるようになったのは、宗教改革以後、約500年の歴史があると言われています。それまでは賛美の歌があっても、それはごく限られた役割をもった者たちによって歌われてきたのが、キリスト教の歴史であったと言われています。それだけ、賛美は私たちにとって近いものとなりました。
 
昨日、私たちの教会修養会でテーマのひとつとされたのは、「届く言葉で主を礼拝する」というものでした。そのなかで、「賛美歌」をどのように私たちは考えることができるのだろうかということも、テーマのひとつとなりました。届く言葉には、私たちが「意味のわかる言葉をもって主を賛美する」というものが含まれることを、私たちが考える機会となりました。
 
私たちの教会では、1954年に出版された『讃美歌』を用いていますが、その曲のすべてが文語体によって歌詞がつくられています。音韻の美しさもさることながら、文語が生活言語として用いられていない現在ですから、その意味が呪文のように聞こえると、私は感じ続けてきたわけです。特に、私も含め、文語を生活言語としてこなかった世代にとっては、賛美の本来の意味というものが損なわれてしまうのではないかと思えてならないのです。
 
そのことについて、参加者とともに考えることができました。「慣れ」や「親しみ」、「思い出」などが、私たちの心にしっかりと根付いていますので、なかなか文語の賛美歌から、口語の賛美歌へとスライドしていくことに違和感を覚えるというご意見もあった一方で、未来志向の視点で、新しい賛美をすることの大切さというものが、未来に向かって歩んで行く教会には必要であるという意見もあり、とても良い話し合いの時を持つことができました。
 
礼拝という営みのなかで、私たちがいかに賛美というものについて、考えていくことができるか。私は「賛美の本質」というものを大切にしつつ、その本質が守られたうえで、礼拝に参加する人たちの思いがひとつとされるような賛美歌のあり方を、これからも求め続けていきたいと願わされました。そのことを、今日の聖書の言葉に対する黙想として、つづりたいと思いました。
 
これからも、私たちが主を賛美するという点において、私たちの心が豊かに神によって広げられていきますように。そのことを願いつつ、皆さんの賛美する生活の一切に、神からの守りと祝福を、心からお祈りします。

19/07/2026

2026.7.19(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編8編2節
主よ、怒りに燃えて私を責めず
憤りに任せて懲らしめないでください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章21節
神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。今日、それぞれの教会や集会で行われる主の日の礼拝が、神の喜びに満ちあふれますように。そのことを祈りつつ、今日のローズンゲンに選ばれた聖句から黙想を得たいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐテーマは、「神の怒り」であると私は受け止めました。どの宗教でも、神仏の怒りというものがテーマになることがあります。聖書にも、神の怒りについて触れている部分が数多くあることは、皆さんもご存知の通りであると思います。
 
私たちは「神のかたち」として造られたと聖書にあります。つまり、私たちの性質というものは、神をモデルとしています。私たちも怒ります。その怒りがいろいろなところに向けられるでしょう。世の中に対して、人に対して、そして自分自身にすら怒りが向けられることがあるのです。
 
しかし、ここで考えたいのです。「私たちは神が怒るような仕方で怒っているのだろうか」ということをです。この問いに対する答えは「NO」であると私は感じ、考えています。そもそも怒りというものは、正しいことが正しく機能されていないときに起こる感情であると言って良いでしょう。ただ、その正しさというものが、何に基づいた正しさなのかということを、私たちはよく考える必要があるのです。
 
今日の新約聖書の言葉には「神の義」という言葉が登場します。神の正しさということですが、しばしば、私たちの正しさと神の正しさというものが符合しないことがしばしばあるのです。神の正しさと思い込んでいても、実は自分自身が気持ち良いと思う、自分の思いどおりになるような正しさを、私たちは大切にしてしまうのです。
 
その結果、自分の思いどおりにならないと、いとも簡単に怒りを発してしまいます。そして、その怒りというものがいろいろなところに向けられたときに、関係性がゆがみ、壊れていくのです。この関係性のゆがみこそが「罪」の根源であると言って良いのです。
 
神は、ご自分の怒りというものを、たやすく人間に向けられることはなさいません。かつてはそういうこともありました。しかし、イエス・キリストという、神との関係性において完璧に生きた存在をもって、十字架の犠牲とする「怒り」が、神御自身に向けられたのでした。神はご自分の怒りを自分自身に向けることによって、その正しさというものを行使されたのでした。
 
私たちは、自己正義に生きるものではなく、神の正義によって生きる者とさせられるのです。神の正しさが私たちと神、私たち人間同士、そして私たちと世界をつなぐ、なくてはならないものなのです。この関係性なしには、世界は決して平和になることはありませんし、神の怒りはまさに、ご自分がつくられ、愛されたこの世界のために、いたずらに人に向けられることなく、自分自身に向けられたということを、じっくりと噛みしめたい。これが、私が今日得た黙想でした。
 
今日から始まる七日間の旅路も、そのような神の姿勢に支えられながら、私たちは歩むことができます。どうか、その先駆けとなる今日の一日も、神の正しさを心に染ませながら歩むことができますように。皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

18/07/2026

2026.7.18(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
創世記5章2節
神は彼らを男と女に創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、人と名付けられた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章10節
相手に敬意をもって丁寧に接しなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
ここ数日、黙想をお届けすることができず、申し訳ありませんでした。今日は今週最後の一日ですが、私は、教会員の方の葬儀を執り行います。心を込めて、神の導きが豊かにあることを心から祈りつつ、一切を司り、慰めと励ましを与えてくださる神の恵みがあふれるような葬儀のひと時となればと願います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「相手に敬意を抱く理由」というものでした。このことについて黙想をつづりたいと思います。
 
相手に敬意を抱く理由。それは、その人を愛情をこめて造られ、命の息吹を与えたのは神だからです。神は人間を創造されたときに「祝福された」と、今日の旧約聖書には記されています。神の祝福が人間に与えられたということは、その祝福が人間同士にあふれることこそ、神が願っておられることなのだということを想わされます。
 
しかし、どうでしょう。人間同士が敬意を持てないことなど、私たちの世界ではざらにあるのではないでしょうか。なぜでしょうか。そこに神はいないからです。どんなに神を信じていると自覚していたとしても、私たちの感情や思考が、神の存在よりも強く、大きなものになってしまうときに、自分の期待通りに動かない相手に対して「敬意が抱けなく」なってしまうのです。誰でも、大なり小なりそういうことはあるものです。
 
誤解を恐れず申し上げれば、そのような状態はもはや、神のみ心に沿っていないことを意味します。神を信じているという言葉すら、空しいものとなってしまうのです。この神から乖離され、空しい状況こそ、私たちが痛感しなければならないことなのだと、私は自戒を込めて思わされるのです。神の祝福を踏みにじっているのですから。
 
しかし、そんな私たちにですら、祝福を注ぎ続けておられる神がおられるということを、私たちはしっかりと握りしめたいのです。神が祝福された人間であるということをです。
 
この世の中は、私たちのゆがみによってさまざまな差し障りというものを生んでいるからこそ、神の祝福を無駄にしない生き方というものが問われているのだと。これが私の今日受け止めたいと思ったことでした。
 
一週間の終わりである今日の一日もまた、神の祝福を心から感謝できるような時となりますように。私たちが神に敬意を払うことが、どのように人に向けられるかを考えることができますように。皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

15/07/2026

2026.7.15(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ホセア書11章8~9節
私の心は激しく揺さぶられ
憐れみで胸が熱くなる。
私は神であって、人ではない。
あなたのただ中にあって聖なる者。
怒りをもって臨むことはない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書3章16節
神は、その独り子お与えになったほどに、世を愛された。御子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
月曜から、日本基督教団教師委員会の仕事で、能登半島にある4つの教会と、そこで働く牧師の先生がたを訪問する機会をいただいています。2年半前の震災以来、つねに試練のなかを歩んでこられている先生方の労苦をあらためて知る機会をいただき、大きな感謝と自分自身の反省を思わされていました。
 
そんなこともあって、昨日は黙想をお届けすることができませんでした。申し訳ありません。今日は少し時間が取れましたので、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、聖書の中心とも言えるものであることは、皆さんもご存知のことと思います。神はご自身の独り子であるイエスをキリスト(救い主)としてお与えくださるほどに、ご自分がつくられた世界を深く愛されたとあります。この言葉こそ、聖書の中心・キリスト教の中核をなす言葉と言って間違いないでしょう。
 
しかし、このあまりにも有名過ぎる言葉の土台にあるものが何かについて、いちいち深く考える機会があっただろうかと、あらためて思わされました。当たり前すぎてそれを当然と受け止めれば受け止めるほど、そのような感覚を抱いてしまう私自身に気付かされたのでした。
 
今日のローズンゲンに選ばれたのは、ホセア書の一節です。そこに、神の人間に対する深い思いというものが、神によって語られています。「私の心は激しく揺さぶられ/憐れみで胸が熱くなる。」というものです。激しく揺さぶられる心をもって、私たちを憐れみのなかに招き入れてくださるというのです。
 
私たちは何度も何度も、神に逆らっては、さも自分自身が神であるかのように生きてしまうのです。神に愛想突かされてもおかしくないなかにあっても、神がご自身の心が激しく揺さぶられるほどに、私たち一人ひとりを愛される。神は決して安定のなかで私たちを愛しておられるわけではないのです。非常に衝撃的なかたちで、私たちにご自分の愛を示されたのです。
 
私たちは、そのような情熱的な神によって今日も生かされています。苦しみのなかにあっても、私たちを慈しんでくださる神によって守られていることへの感謝を、今日一日の糧として私たちは生きたいと心から願います。どうか今日の一日が、情熱的に愛してくださる神の御手に守られながら生きることができますように。平安を祈ります。

13/07/2026

2026.7.13(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編98編9節
主は来られる、地を裁くために。
主は義によって世界を裁き
もろもろの民を公平に裁かれる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書5章30節
(イエスの言葉)私の裁きは正しい。それは、私が自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方のみ心を求めているからである。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに選ばれたふたつの聖句に共通するテーマは「裁き」でした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
「死後裁きにあう」
いわゆる「キリスト看板」と呼ばれるものには、かつてはこのようなフレーズの聖句がよく用いられていたように、私は記憶しています。その看板を作成している団体は、小さなブックレットを発行していて、よく学校の前で配られていました。その中身を見ると、神に従わない者に対しては、まさに阿鼻叫喚ともいえるような地獄絵図が、おどろおどろしく描かれていたことも思い出します。つまり、裁きとはそのようなイメージというものを、私たちに与えるものとして印象付けられているのではないでしょうか。
 
確かに、聖書に描かれている裁きには、そのような一面もある「かも」しれません。しかし、裁きというのは、何も悪を断罪して奈落の底に突き落とすことだけを目的としているのではありません。裁きの指し示す先にあるものは、「神は公平にこの世界を見ておられる」というところにこそ、私たちは関心を寄せるべきなのではないだろうか。私はそう思えてなりません。つまり、神はご自分のみ心によって、不条理を味わっている人が不幸のままに生きることのないように、必ず助けのみ手を差し伸べてくださる。ここにこそ、裁きという言葉の真意があるような気がしてならないのです。
 
神はご自分の正しさ、つまり「義」よって裁かれると、今日の旧約聖書の言葉にもあります。神の正しさは、人間をはじめこの世界を創造されたときに、最高の愛をもってつくられたものすべてを慈しまれたということにあります。その神の目的と実践こそが、神の正しさであるというのです。そして、その正しさが人間との関係をかたちづくり、私たち人間同士の関係性をもかたちづくるというのです。
 
裁きという言葉は「審査する」という意味もあります。どれが本物か、正しいかを見極めることが裁くということなのです。ですから、私たちもまた、何が正しいかということを見極める知恵と眼力というものを神からいただいて、そのために御言葉に聴き祈るという循環が求められているです。私は、今日の聖句からそんなことを黙想しました。少しでも神の正しさにあやかって生きることができますように。そのことが神の望まれる平和へと結び合わされるからです。
 
今日も皆さんの一日がそのような神の愛と正義に導かれますように。心からお祈りします。

12/07/2026

2026.7.12(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書25章4節
主よ、
あなたは弱い者の砦
苦難の中にある貧しい者の砦
豪雨を避ける逃れ場
暑さを避ける日陰となられる。
横暴な者たちの勢いは壁を叩く豪雨

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書2章19~20節
ヘロデが死ぬと、主の天使が、エジプトに入るヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、幼子とその母を連れ、イスラエルの地へ行きなさい。幼子の命を狙っていた人たちは、死んでしまった。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。台風が到来し、豪雨が全国を襲う日々が続いていますが、どうか、この自然の出来事が、少しでも被害を食い止めることができますように。そのことを祈りつつ、今日も世界中で行われる主の日の礼拝が祝福されますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに選ばれた聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「安全を与えられる神」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
旧約聖書では、しばしば、私たちの神のことを「砦」に例えられています。砦とは、町を守るための城壁のことを指すわけですが、この砦が、町の平和と安全を保証し、私たちはこの砦ゆえに心安らかに生きることができる。その砦こそ、私たちの神なのだ。人々の神に対する信頼にあふれた言葉であることがうかがえます。
 
私たちを苦難から守られる神が、私たちとともにおられる。苦難は容赦なく私たちを襲うことがあるでしょう。豪雨が私たちを襲うようにです。その襲来を前にして、私たちは実に無力な姿が露わにされるのです。どんなに歯を食いしばって頑張っても、自分の思うように危機を乗り越えることができない。たとえ神を信じていたとしてもです。
 
しかし、そんな私たちに、神は何ら変わることなく保証の言葉を与え続けています。苦しみ、痛みを経験したとしても、それでも「砦」でいてくださる方が、私たちをぎりぎりのところで守っていてくださる。このことに私たちを信頼をもって受け入れ、その場を耐えることが大いに許されているのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスの命を狙おうとするユダヤ王ヘロデから身を守るため、神がヨセフ一家をエジプトへ逃げさせます。歳若い夫婦が、生まれたばかりの赤子を連れて、遠い異国の地・エジプトへ逃げるというのは、交通網が充実していなかったこの時代、決して楽なことではありませんでした。
 
しかし、神はその旅路を砦となって十分に守られました。しばらくヨセフ一家は堂々と生きることができませんでした。しかし、そのことで命の危険を究極的なところで味わうことはなかったのです。そして、神はヘロデの死を通して、家族をイスラエルの地に戻されました。それはまるで、神がかつて約束の地にイスラエルの民たちを連れ戻した時のようにです。
 
私たちの今日から始まる七日間の旅路もまた、何が起こるか分かりません。自分自身にとって不本意なこともあるかもしれません。苦しみが増大するようなこともあるでしょう。しかし、そんな時でも、神は必ず私たちの守りとなってくださることを、私たちは安全を希望としながら、生きていくことができる。そのことを胸にして歩みたいと思ったのが、今日の私の黙想でした。
 
そのことを、今日の礼拝を通して感じ取ることができますように。そして、私たちがこの旅程を神とともに歩む幸いを心の糧としながら、その日々を歩むことができますように。皆さんの歩みのために、心からお祈りします。

11/07/2026

2026.7.11(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編46編11節
静まれ、私こそが神であると知れ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書14章33節
舟の中にいた人たちは、「まことに、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。一週間を振り返り、新しい週への備えの時として、今日の一日が神とともに歩む祝福に包まれますように。そのために、今日も御言葉に聴き、そして黙想したいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「静まりのなかで神を知る」であると私は受け止めました。どちらも静まったときに、神を知り、また神に対して信仰を告白したという出来事のなかで、これらの言葉が語られているからです。
 
今日の新約聖書の言葉は、湖上で荒波に翻弄される弟子たちに向かって、イエスが水面を歩いたシーンのなかで語られています。イエスはペトロを招きます。しかし、ペトロは恐れのあまり湖の上を歩くことはできませんでした。心が騒いでいたからです。その後、弟子たちを振り回した荒波もやみ、辺りは静まりました。弟子たちの心のざわつきも静まったことでしょう。
 
私たちの心は騒ぎます。大波であろうと小波であろうと、私たちは不本意なことが起きると心がざわつくのです。不安と恐れに駆られます。神がともにおられるのに、そんなことすら忘れてしまいます。そして、信頼がいつの間にかに消え去り、失われてしまうのです。これが人間の偽らざる姿なのでしょう。神から遠く離された状態、これが「罪」の示す本意なのです。
 
しかし、そのような私たちの心騒ぐ姿を御存知である神が、私たちに静けさを与えてくださる。時には静まれと私たちに訴え、時には私たちが静まれるように神御自身が働いてくださいます。この神の働きによって、私たちはまさに罪の深みから掬(すく)われるのです。救(すく)われるとは、そのような意味から来る言葉なのでしょう。
 
私たちの心をじっくりと眺めたいのです。今、騒いでいないだろうか。ざわつくものを感じていないだろうか。感じているならば、それはごくごく普通なことではあるのですが、そんな状態でい続けることは、心身に良い影響を与えません。早く解放されたいと願うのも当然なことなのです。
 
だからこそ、神は「私を知れ!」と、私たちに語り掛けてくださいました。知るとは心の底から理解することです。そのために祈りと御言葉の循環は私たちに無くてはならないものなのです。その潤滑油として、聖霊が豊かに働いてくださることを、私たちは希望のうちに受け取りたいのです。
 
一週間を振り返る今日のこの日、神をより理解するために与えられた時を用いることができますように。心からそのことを願いつつ、皆さんの一切に、神からの守りと平安を、心からお祈りします。

10/07/2026

2026.7.10(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
コヘレトの言葉9章10節
手の及ぶことはどのようなことでも、力を尽くして行うがよい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙3章17節
そして、言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「神が望まれることを、心を込めて生きる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、コヘレトの言葉の一節でした。コヘレト(知恵者)は、できることならば、力を尽くして行うことを勧めていますが、この言葉は、何でも自力に頼って事をなしなさいということを言っているわけでは決してありません。そうではなく、私たちが今ある「立場」というものを認識・自覚したうえで、神が私に今与えられている務めに対して、誠実に生きなさいということを勧めているのです。
 
たとえ類まれなる能力を持っていたとしても、その能力をいかんなく発揮したとしても、その結果を出せたとしても、私たちの心が100パーセント満たされるとは限りません。どこかに不満と悔いが残ることだって、私たちの世界には往々にしてあることを、私たちはよく知っています。私たちは自分の思いどおりには何もかもうまくいかないということを痛感するのは、とても大切であると言えるでしょう。
 
しかし、神が与えられた務めというものは、私たちのそのような限界をすべてご存知である神が、そのことを十分に承知なうえで、私たちに生きることを求めておられます。だから私たちは、物事の結果にいちいち一喜一憂する必要はどこにもないのです。振り返りは必要でしょう。しかし、振り返るとすれば、それは、私たちが事をなそうとした際に、神が私たちとともにいてくださるということに、心からの信頼をもって向き合っていたかどうかという振り返りなのです。
 
今日の新約聖書にある「主イエスの名によって」というのは、その振り返りが意味するところの「主がともにいてくださる」ということへの、私たちの認識が問われている言葉なのです。私たちは、いとも簡単に神をないがしろにして、さも自分自身だけで生きているような感覚に陥ります。そして、神不在の状態で自己憐憫の気持ちにさせられたり、他責思考で簡単に自分自身の思いどおりに動かない社会の責任にすることによって、自分自身を省みることすら忘れてしまうのです。
 
だからこそ、神である主が私たちに生きる使命というものを具体的に提示してくださることを、いかに私たちがゆがみなく、それを受け取り、この世の中で生きていくかということが、大変重要なのだということを、私は今日のふたつの聖句を通して受け取りたいと思ったのです。
 
与えられた時間と機会、出会うひとひとに対して主にある誠実をもって、心と力を込めて向き合うことができますように。その営みに神の助けといつくしみが豊かにありますように。今日一日の私たちの平安な生活のために、心からお祈りします。

09/07/2026

2026.7.9(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ダニエル書2章28節
秘密を啓示する神が天におられます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙1章27節
神は彼らに、この秘儀が異邦人との間でどれほど栄光に満ちたものであるかを知らせようとされました。この秘儀とは、あなたがたの内におられるキリスト、すなわち栄光の希望です。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日の新約聖書の言葉は「秘儀」という言葉が登場します。それと関連する旧約聖書の言葉に「秘密」という言葉が、今日選ばれたダニエル書にも記されています。つまり、神は御自身の計画のなかに、私たちには理解しえない秘密の出来事を、ご自身の良しとされるときに明らかにすることによって、神のみ心というものを明らかにされることによって、私たちひとりひとりに神がいつも私たちとともにおられることを希望としてくださるのです。今日のふたつの聖句は、そのことを知らせるものであると私は受け止めたいのです。
 
月曜から昨日まで、私は愛媛・松山に滞在していましたが、そこで私は16歳年上の従姉との素敵な交流のひと時をいただきました。私が赤子の頃から、ずいぶんかわいがってくれたお姉さんです。しかし、その従姉が結婚して四国に移住してからは、長いことお付き合いはありませんでした。
 
その付き合いが再開したのは、約20年前のことでした。私が牧師をしていることを風の便りで知った従姉が、私のところへ連絡をしてくれたのです。実は彼女もクリスチャンになっていました。会いたいと言ってくれて、久しぶりの再会が実現しました。実はそれ以来、その従姉のお姉さんを通して、私はいろいろな驚きを経験します。まるで神がすべてを仕組んでおられたかのように、私に「喜びの経験」の数々を、神は従姉を通して与えてくださいました。
 
そのことを数えたらキリがありませんが、最近では長年疎遠だった伯父との再会やその看取りをすることができたのも、唯一連絡を取り合っていた従姉の連絡があったからです。私の家庭、特に父親の家系は、決して幸せなものとは言えませんでした。複雑な家庭環境のなかで、そこに関わったひとりひとりが、何らかの不幸と苦労を背負いながら、その日々を歩んでいました。
 
細かいことは省きますが、私の父は三人きょうだいでしたが、昨年生涯を終えた伯父を含め、その三人のすべてが洗礼を受けて神の御許に召されました。生きているあいだは、神の救いから一番遠いと思ってもおかしくないような生き方をしていた人たちのすべてが、神の恵みに招かれたことは、私たち人間のちっぽけな思考をはるかに超えた、神の「秘儀」の何物でもないと、私は心から確信することができました。
 
それだけではありません。数年前、カルト化した教会から逃げ出して私が当時働いていた教会へ避難されてきた方がおられましたが、その方のピンチに解放のきっかけを与えてくれたのは、従姉の存在でした。想像もできないような方法で、神は従姉のつながりを通してすべてを解決してくださったのです。カルトから逃れることができたその方も、その後献身して、来春神学校を卒業し、伝道者としての道を歩もうとしています。
 
今回の滞在でもまた、その喜びを互いに確かめ合って、一緒に喜ぶことができました。「秘儀」とは、新約聖書の原語では「ミュステリオン」という言葉が用いられています。英語の「ミステリー」の語源となった言葉です。神のなさることはミステリー、不思議なんです。しかし、その不思議さは必ず私たちを喜びへと導かれるミステリーであることを、私は感謝して受け入れたいのです。
 
正直言うと、私にはまだまだ苦しいことがたくさんあります。今、その苦しさを抱えながら、今朝も目覚めました。その苦しさが頭をもたげています。できるものならば、一日も早くこの苦痛から解放されたいと願っています。しかし、秘儀を明らかにしてくださる神がともにおられる。今日の新約聖書の言葉には、それがキリストその御方であり、私たちの希望であるとあります。苦しいなかでも希望を見い出しつつ、今日の一日を歩んでまいりたい。これが、今日の私が得た黙想でした。
 
どうか、皆さんの一日も素敵なものでありますように。お祈りします。

08/07/2026

2026.7.8(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
民数記23章12節
主が私の口に授けられたことだけを、私は告げるべきではないでしょうか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書13章34節
(イエスの言葉)あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。あたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日の旧約聖書の言葉は、少し説明が必要かもしれません。そのことを最初に触れてから、今日の黙想をつづりたいと思います。
 
旧約聖書・民数記22~24章に描かれているエピソードに、こんなものがあります。モアブの王バラクが、イスラエルを呪うために預言者バラムを雇いました。しかし神の介入によってバラムは呪うことを許されず、結果的にイスラエルを祝福する言葉を三度も語ることになりました。そのときに、バラクがバラムに対して不快の念を表したときに、バラムが答えた言葉が、今日選ばれた聖書の言葉です。
 
「主が私の口に授けられたことだけを、私は告げるべきではないでしょうか。」バラムのこの言葉には、人を呪う言葉を発することは、神の御心ではないことを断言します。神の御心に適う言葉を、呪いの材料とするのではなく、人を祝福するための道具として私たちは用いることが、何よりも大切だというのです。
 
私はこの聖書の言葉に触れるたびに、ある曲を思い出します。この黙想でも紹介したことのある曲ですが、「ザ・ロマネスク」というユニットが歌った「祝っていた」という曲です。呪おうと思っていても、いくら呪おうとしても祝っていたという内容の歌詞なのですが、まさにこれこそ、バラクとバラムの物語に相通じるものがあるように思えてならないのです。(こちらからお聴きください)。
 
この「祝っていた」のように、なんとなく滑稽な状況だったら良いのですが、しかし、呪いの言葉や人を呪ってしまうような思いにとらわれるようなことがあるとすれば、そんな不幸なことはないのです。人間同士も不幸になるし、何よりも神と人間のあいだにある関係性も不幸なものとなってしまうのです。
 
だからこそ、私たちは、神が私たちに対して何を期待しているのかということに思いと心を寄せつつ、生きることがやはり求められているのです。その点で、今日の新約聖書の言葉にこそ、神の期待がどういうものであるかが、私たちの生き方を問い続ける基盤となるのでしょう。「イエスが私たちを愛したように、私たちが互いに愛し合う」。それは人間の安っぽい愛ではありません。相手を慈しみ続ける神の愛をもって、互いに愛し続けるのです。神の所在なき愛は、呪いをともなうことが往々にしてあることを、私たちは肝に銘じなければならない。これが、私が今日の聖句を通して、受けとめたいと思ったことでした。
 
今日も私たちのひとりひとりが、呪うのではなく祝うということの幸いを噛みしめつつ、神とともに歩むことができますように。心からお祈りします。

07/07/2026

2026.7.7(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ヨナ書2章7節
わが神、主よ
あなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録9章34節
ペトロが、「アイネア、イエス・キリストが癒やしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日から愛媛県松山市に滞在しています。昨日、日本基督教団四国教区のお招きで、セミナーの講師の務めをいただきました。昨晩は従姉の家で楽しい時を過ごしました。私にとっては数少ない親戚のひとりですので、積もる話もあり、とてもゆっくりと過ごすことができました。ですので、今朝は遅い目覚めでした。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「命の回復」です。大きな魚に飲み込まれたヨナ、そして、身体が思うように動かなかったアイネアという人が、神の癒しによってその麻痺が解消された出来事。そのいずれも、生きるということ(つまり命)が回復されたことを物語っています。生理的に心臓が再び鼓動を開始したということでなく、生きる希望が回復したことも、それは何の紛れもない復活体験なのだと私は受け止めています。
 
ヨナは、神の指し示しに抗いました。あくまで自分自身の欲求にしたがってわが道を歩もうとしました。しかし、ヨナの思いはそれこそ思い通りに運びませんでした。大きな魚に飲み込まれて、暗闇のなかをさまよわなければなりませんでした。しかし、神はご自分の言うことを聞かなかったからといって、ヨナを決して見捨てたりはされなかったのです。
 
ヨナは神の憐れみと慈しみによって、魚の腹のなかから吐き出されました。暗闇からの解放であり、この世界で神とともに生きる機会がふたたび与えられた一瞬でした。ヨナの告白が神に向けられます。しかし、ヨナは今後一切神の道からそれたわけではありませんでした。人間はそうして、神についたり離れたりを繰り返しながら、最終的に私の人生をともに歩んでくださる神の不変を理解するのではないでしょうか。
 
大切なのは、そのような私たちの歩みのなかで、私たちは神の真実というものに視線を注ぐことができているだろうか、ということであり、そのために私たちは、神の言葉に耳と心を傾け、己の偽らざる姿を省みて、神とともに生きる一日を「再び始める」ことなのだと思います。だからこそ、そのような時間を確保するというのは、本当に重要なことなのだと、私は今日の聖句を通して受け取ることができました。
 
皆さんにとっても、この一日がまた豊かなものとなるためにも、神の言葉に聴き、祈り、己の姿をじっくりと吟味することができますように。皆さんの神とともに歩まれるその時に、神からの大きな祝福と平安がありますように。心からお祈りします。

06/07/2026

2026.7.6(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
申命記5章32節
あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおり、守り行わなければならない。右にも左にもそれてはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書12章26節
(イエスの言葉)「私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
先々週の日曜以来、しばらくお休みしていた黙想を、今日から再開したいと思います。先週の月曜、左眼の手術を無事に受けることができました。2回の術後検査で経過は順調とのことで大変安心しております。この場を借りて、私の眼のことで祈ってくださった皆さんへ、心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。また、今後ともこの黙想を通して、皆さんと神のみ言葉を共有できる嬉しさを噛みしめつつ、お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、神に従う生き方というものを、私たちに示されている内容を、私たちは知ることができます。旧約聖書の言葉は、指導者モーセとその民イスラエル人が、40年にわたる苦難の旅路を経て、その最終部分に差し掛かったとき、モーセによって語られた「遺言」の一節です。
 
右にも左にもそれることなく、神が与えた掟を守り行うことの大切さが、モーセによって語られました。その掟とはなんでしょうか。それは具体的に神が民たちに与えた律法の言葉全体を指すわけですが、その中核部分にあるものを、モーセは神の名前である「主(ヤーウェ)」をあえて用いることで、その核心について述べていることがわかります。
 
神の名前であるヤーウェには「私は(あなたがたとともに)いる」という意味があります(出3:14)。喜びのときも苦しみのときも、神はご自分の民たちを大切にして、その旅路を見放すことなく導かれました。そこには神の人間に対する深い御自身の愛が込められていることを思えば、神と民は「神の示される愛」によって関係性が保たれ、そのことが中心となって数々の律法の言葉、つまり掟が与えられたということになります。
 
ですから、神がモーセを通して、掟を守り行うとは、神の愛から私たちが右にも左にもそれてはならないのだという、強いメッセージ性が込められているということを、私たちはしっかりと受け止め、受け入れることが大切なのです。人間の独りよがりな愛のことではありません。神が人間に示された愛が何かを知り、理解し、その愛をもってこの世で生きていくという、私たちの決意が要求されるのです。
 
だからと言って、そのことをなかなか実践できないのが私たちの偽らざる現実であるとも言えるでしょう。神の愛で他者を愛せない自分がいます。自分自身だけが気持ちよく感じる愛で、隣人に要求したり支配したりするのです。神の愛とそのことをはき違えてしまう私たちの姿があるのです。だからこそ、私たちは神の知恵と力を十分にいただきながら、その生き方にチャレンジすることが大切なのです。
 
「私に仕えようとする者は、私に従って来なさい。」とイエスは弟子たちに言われました。イエスに従う生き方とは、イエスの言動に示された「価値観」を、自分自身の価値観とすることです。これは大きなチャレンジなのです。この世で生きて、その価値観で生きるということが、必ずしも「得」をするわけではありません。報われないことも多々あるでしょう。しかし、イエスはそのような生き方を通して、世界に平和を与えられました。私たちの世界が神の平和によって支えられるのであれば、私たちはイエスの価値観に聴き、理解し、受け入れ、そのことを自分自身の生き方にすることが、やはり神によって求められているのです。
 
たとえ、それが自分の思うようにいかなかったとしても、その意志さえあれば、神は必ず助けてくださいます。そのことを私たちは、心の希望として、今日の一日を主とともに生きることが大いに許されているのです。私が今日得た黙想とは、まさにその希望に生きるということでした。
 
どうか、皆さんの一日が、主にあって素敵な時となりますように。心からお祈りします。どうぞ健やかな今日の日をお過ごしください。私もそのように生きたいと思います。