31/08/2026

2026.8.31(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
創世記28章22節
(ヤコブによる神への賛美)
「私は、あなたが与えてくださるすべてのものの十分の一をあなたに献げます。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二9章7節
喜んで与える人を神は愛してくださいます。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、世界中でおこなわれた主の日の礼拝を喜び、皆さんのそれぞれが、神の良いものを胸にして、それぞれの家路に就かれたのではないかと思います。私も、午前・夕方のそれぞれの礼拝で、良いものをたくさんいただくことができました。
 
午前は、夏季休暇の牧師に代わって、ある教会でみ言葉の取り次ぎの機会をいただきました。そのときに、その教会の方から「日々観想を読んでいます」というお声を数名の方々からいただくということがありました。私のつたない黙想ではありますが、聖書のことばを分かち合える関係性がここにもあったのだということを改めて知らされ、嬉しい思いとこれからもこの黙想を続けていきたいという気持ちが沸いてきました。本当に感謝なことでした。
 
そんな思いを抱きつつ、今日もローズンゲンを通していただくみ言葉の恵みを味わっていけたらと心から願いつつ、黙想をつづりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは、「自発的に」という言葉であると私は受け止めました。目に見えるあらゆることに強制されたり束縛されたりするからではなく、あくまで神との豊かな関係性をもって、私自身のわき出る思いからなされることを、神である主は祝福されるのだということを思わされる聖書の言葉でした。
 
親の財産相続で「失敗」したのは、双子の兄の不興を買ったヤコブでした。ヤコブは、神から財産を受け継ぐことを生まれる前から、母リベカを通して約束されていました。兄がいるのにもかかわらずです。この不自然な神の約束を実現するために、ヤコブも母リベカも、極めて「人為的な」仕方でそのことを実現しようとします。その結果、ヤコブの父イサクと兄エサウを罠にはめることによって、その目論見は成功しました。
 
しかし、その代償はあまりにも大きかったのです。ヤコブはエサウに命狙われて逃亡する羽目となりました。野宿しなければならないほどにみじめな思いをヤコブは経験しました。であると同時に「神の約束を果たしたのになぜ?」という不条理な思いが、ヤコブを取り囲んだのでした。そんなヤコブに神は現れました。そして神は告げます「あなたのことを決して見捨てない(創28:15)」と。この神の言葉に、ヤコブは「神がこの場所におられるのに、私は知らなかった(16)」と。
 
つまり、ヤコブは人為的に神の約束を果たさなくても、神はその約束を反故にされることは決してなかったのでした。神がご自分の仕方でその約束を果たされるということを、ヤコブは「知らなかった」のです。しかし、神はヤコブの失敗があったのにもかかわらず、ご自分の約束を果たされるとふたたびヤコブに約束されました。この確かな言葉に、ヤコブの心は動かされて、その結果、ヤコブは神に自らを「ささげる」ことを宣言しました。それが今日の旧約聖書の言葉が語る意味となっています。
 
つまり、神に強制されたわけでもなく、機械的にそうするのでもなく、自分のうちからわき出てくる感謝の発露として、極めて自由かつ自発的な行動へと駆り立てたのでした。
 
そのことが、今日の新約聖書の言葉にもよく表れています。「各自、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりにしなさい。」(Ⅱコリ9:7)という言葉に続いて、その後半部分が、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉となっています。「心に決めたとおりに」というのは、神との交わりにおける深い感謝や祈願の思いが、私たちそれぞれの心と思いに「判断と決断」というものを芽生えさせるのです。この判断と決断をもって、神とともに歩むという道を、今日という一日も選び取って、神の助けによって歩んでまいりたいと思います。
 
今日の一日が、神からの豊かな恵みに支えられたものでありますように。心からお祈りします。

30/08/2026

2026.8.30(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
列王記上19章7節
主の使いがエリヤに触れ、「起きて食べなさい。この道のりは耐え難いほど長いのだから」と言った。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録27章34節
(嵐のなかでのパウロの言葉)
「どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。その初日であるこの日曜、世界中でおこなわれる主の日の礼拝が、神の良いもので満たされますように。それを私たちが存分にいただいて、この七日間の旅路を生き延びることができますように。そんな願いを抱きつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、暴虐な人物であったアハブ王によって追われていた預言者エリヤが、その逃亡劇のなかで起きたエピソードの一節です。この時に、エリヤはすでに疲れ果てていました。命狙われるなかで逃げ続けることに疲れてしまったのです。そんなエリヤの疲労を、神は決して見逃すことはありませんでした。神は、エリヤのためにパン菓子と水を備え、十分な休息を与えました。エリヤはそれを食べて休み、今日の言葉にあるように、神のみ使いの励ましに満ちた言葉を胸に、その後も旅を続け、無事にホレブ(シナイ山)にたどり着くことができたという話です。
 
私たちの疲れに神や癒しの言葉を適切に与えてくださる。このことは、私たち一人ひとりの疲れに、ご自分の言葉を聖書の言葉を通して与え、私たちの疲れをともに担い、ともに歩み、癒しの道を与えてくださることに相通じるのではないかと私は受け止めました。神の助けというものは、私たちが100%苦しみから逃れることを絶対的に意味するものではありません。苦しみを抱えながらも、神がそんな私たちを支えてくださるということなのです。
 
私たちは順風満帆なときは、神とともに歩む楽しさであるとか喜びを十分に味わえることでしょう。しかし、少しでも私にとって不都合なこと、苦しみをともなうことが生じれば、神とにともに歩むこともまた、苦しくなることもあるのです。神とともに歩むよりも、もっと別な方法が道があるのではないかと迷ったりするのです。ちょっとしたことにつまずきやすくなって、様々な物事に敏感になって、怒りや苦しみをぶつけやすくなります。エリヤがそうであったことは、今日の聖句にまつわるエピソードが物語っていることです。
 
しかし、そうではないのです。苦しみのなかにだからこそ、神が私たちに適切な助けを差し出してくださるのです。生き延びるのに無くてはならない「糧(かて)」というものを、時宜に応じて与えてくださる神がおられることを、私たちは忘れないようにしたいのです。
 
難破ゆえに、ローマに向かう船旅でさんざん翻弄された使徒パウロもそうでした。乗船していた人々は、先行き見えない恐怖を感じました。何日も食べられない状況が彼らを襲いました。あの時こうしていればこんなことにならなかったと後悔の念に襲われ、他責思考が彼らの恐れを助長してしまったのです。
 
そんなときにも、パウロは語ります。それが、今日の新約聖書の言葉です。私たちの神は必ず私たちを守ってくださるのだから、今は食べて元気をつけようではないか。そんなパウロの言葉に人々は同調し、食べて元気をつけました。最終的に船は壊れてしまいますが、彼らは生き延びました。こうしてマルタ島に上陸し、越冬の後ローマに向けて歩むことができたのでした。
 
このふたつのエピソードを胸にして、新しい一週間の旅を私たちは主とともに歩むことができますように。皆さんの日々に、神の助けが豊かにあることを心よりお祈りします。

29/08/2026

2026.8.29(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編40編18節
私は苦しむ者、貧しい者。
わが主が顧みてくださるように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙4章12~13節
(パウロの言葉)
私は貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹することにも、飢えることにも、有り余ることにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、こんにちは。
今朝はゆっくりと過ごして、もう昼前ですが、ここから一日の活動を始めました。朝に黙想をお届けできず、いつも朝に読んでくださる方々には、申し訳ないばかりです。一週間も最終日を迎えました。この七日間の旅路を振り返りながら、今日与えられたみ言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示された旧約聖書の言葉は、詩編40編の最終節でした。詩編40編はダビデ王によって歌われた詩編ですが、その内容を読んでみますと、ダビデのような神の祝福にあふれながら生きていた人物ですら、多くの苦しみにまみれながら、そこに悩み、逡巡しながらも神とともに生きる幸いを見い出したというダビデの心情というものを読み取ることができるわけです。
 
ダビデは王として、多くの幸福を味わっていたことは間違いないでしょう。しかし、そんなダビデが災いや苦しみから一切縁が無かったと言えば、そんなことは全くありませんでした。人のあざけりや中傷がダビデを容赦なく襲うことも少なくありませんでした。ダビデ自身の問題もあったことでしょう。そのようななかで、神が与えた幸福と裏腹の災いというものの両方を抱えながら、神が自分自身とともに歩まれるとは、一体どういうことなのだろうかと、ダビデは真剣に祈りつつ、考えていたからこそ、詩編40編のような詩が生まれたのだと私は思うのです。
 
私の苦しさ、そして貧しさを、すべて神である主はご存知であり、こんな私を顧みてくださるのだ。これがダビデの信仰でした。その態度には好戦的・攻撃的なものではなく、あくまで神のみ前にあって、身と心が低くされた姿というものを、私は感じずにはいられないのです。私自身も、日々を生きるなかで、苦しさや自分自身の貧しさというものを痛感し、実感しながら営む者ですが、そういうときに、痛み苦しみに苛まれながらそのことで頭がいっぱいになってしまうがゆえに、神を忘れてしまうことも往々にしてあるのです。実に弱い存在なのです。
 
しかし、ダビデの「神が顧みてくださる」という告白の言葉に、私もそのような告白を神に向けて発したいという憧れを抱きます。神様が分かっていてくださるのだ。そのうえで、私に必要なことを教え、諭し、戒め、矯正しながら、主の道を歩ませてくださることにこそ、苦しみのなかの幸いというものを味わえるということに、希望を抱いて生きたいとあらためて願わされました。
 
後に使徒パウロは、投獄の身にあってフィリピに宛てて書いた手紙で、「ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」とつづりました。私は、その「秘訣」とは何かということに注目したいと思いました。しかし、それは決して突飛なことでも何でもなく、やはり「主がともにおられる」という一点に尽きるのではないかと強く思わされたのです。それ以外にはない。自分の殻に閉じこもるのではなく、すべてご存知である方に自分自身を整えてもらうことにこそ、あらゆる境遇にあっても、心おだやかに生きることができるのだと。そのことに心を込めつつ、今日という一日を生きて、明日への備えを迎えていきたいと思わされました。
 
どうか、皆さんにとっての一日もまた、明日への備えが希望にあふれたものでありますように。そのことを心からお祈りします。

28/08/2026

2026.8.28(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編119編154節
主よ、私に代わって争い、私を贖い
あなたの仰せのとおりに私を生かしてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書9章22節
(イエスの言葉)
「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを治した。」その時、女は治った。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日で熊本地震から1か月を迎えました。今もなお、生活の復旧がままならず、避難所生活や車中生活を続けている方々がおられることを思うと、とても心が痛みます。少しでもそれらの方々の生活が、そして命が守られることを祈りつつ、できることをもって支えになりたいと心から願うばかりです。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のなかで、特に新約聖書で語られている「12年間出血の病で苦しんでいた女性が、イエスによってその病が癒やされた」出来事をあらためて振り返ることができました。今日の新約聖書の言葉は、イエスによって女性になされた宣言の言葉です。
 
長い間苦しみを抱くというのは、筆舌に尽くしがたいものがあると思います。苦しんでいる本人に対して、軽々しい言葉で慰めたり励ましたりすることが、本当にその方にとって助けになるのだろうかと、牧師というつとめをいただいている者として思わされることが間々あります。
 
そんな時に、イエスの言葉を聞くと、私はやはり慰めを得ることができるのだなあと、あらためて感じさせられました。私も左眼の視力を大幅に失い、両眼が見えていたときよりは不便を感じることがあります。気持ちを新たに、見える右眼があるのだからと自分自身を励ましながら毎日を生活していますが、それでも、とても空しくなる一瞬を経験をすることがあります。弱くされた自分というものに、耐えられなくなることもあるのです。
 
そんな時に、「娘よ、元気を出しなさい」というイエスの言葉に慰められたのです。そこには、私が一緒にいるよ、安心して私と一緒に歩きましょうというイエスのみ声が響いてくるようです。そのイエスの言葉が私の霊肉を満たす時に、私自身、信仰の実体であるイエスがこんな私を生かしてくださるのだという気持ちにあふれてくるのです。実際に左眼が劇的に回復し、治癒するわけではありません。それでも嬉しくなるのです。イエスと一緒に生きていけるのだと。
 
今日の聖句は、そんなふうに私に響いてきました。そのことを踏まえて旧約聖書の言葉に耳を傾けると、私のために戦ってくださる神がおられることを知りました。あなたの思われるがままに私を生かしてくださいという祈りの言葉を、私もつむげるよう、今日の一日を生きてまいりたいと思います。
 
皆さんの一日に、そのような神の助けが豊かにありますように。心からお祈りします。

27/08/2026

2026.8.27(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書31章14節
私の民を良いもので飽かせるー主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙4章19節
私の神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日から、富山県と石川県にわたって、豪雨が各地を襲っているニュースを聞きました。私の知人が伝道牧会する教会も被害を受けていることも知りました。自然災害を前にして、不安を覚え、不便を感じているすべての方々が、少しでも守られますようにと祈りつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。
 
さて、そんななかで今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に触れますと、「神は本当に良いものを私たちに与えてくださるのだろうか?」と思いたくなってしまう自分自身があることに気付かされます。神は「良いもので飽かせ」「必要を満たしてくださる」方であると、今日の聖書の言葉にも記されている通りなのですが、私たちは、それに逆行するような出来事に遭遇する時に、そのような神の言葉すら、受けとめ難い自分自身があることを思わされるというのも、また事実なのではないかと思うのです。
 
私たちが、欠けあるこの世の中で生きている以上、すべてが「自分の思いどおりにうまくいく」などということは絶対にないということを痛感しながら、日々を過ごしているのだと思います。そして、私たちの要求をすべて飲み、それを叶えてくださる神がおられるというわけでもないということを実感するのだと思います。
 
だからといって、「そんな神は効き目がない」わけでは決してないのだということを、私は今日の聖句からしっかりと受け止めたいと思いました。それは、私たちの神は、私たちの願望とはかかわらず、私たちの必要をすべてご存知である方である前提のもとで、では、私たちが日々を生きるにあたって「必要なもの」が何かということを、適切なタイミングと出来事をもって、私たちに豊かに与えてくださるのだということを、私たちは心から受け入れる者でありたい。そんなことを願わされました。
 
もし、何もかも自分の思いどおりに進むことを手助けする神ならば、我田引水的な発想をつねに抱いている私たちですから、世の中はめちゃくちゃになってしまうことでしょう。そうではなく、神にとって私たちが幸福に生きる道というものを、私たちが気づくことができるように導いてくださるという点で、私たちに良いもので飽かせ、その必要を満たしてくださるということなのです。
 
そういう意味で言えば、私たちは「神のやり方」というものに対して、信頼を心から寄せつつ、神がなされることを楽しみにしながら、今日という一日を過ごしてまいりたいと思いました。たとえつらいことが私を襲おうとも、必ず神は良いご計画をお持ちなのだということを心から信じつつです。
 
皆さんにとっても、今日の一日がそのような神の良いもので満たされるものとなりますように。心からお祈りします。

26/08/2026

2026.8.26(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編91編14節
(神の言葉)
彼は私を慕う。
私は彼を助け出そう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書17章15節
(イエスの言葉)
私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は酷暑の残暑と言える一日でした。皆さんの健康は守られましたでしょうか。今日一日も、主にあって健やかな時でありますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する話題は「悪から守られる」ことについてだと私は受け止めました。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編91編は、「いと高き方を隠れ場とする者は/全能者の陰に宿る。」という言葉から始まっています。ここでいう「悪」とは何でしょうか。悪は何も自分自身の外にあるものだけではなく、自分自身の心のうちにも存在するものです。善と比較するものとして悪を語るならば、善の源である神との関係性とは対極にあるものとして悪というものが語られていることが分かります。ですから、神と私たちの関係性には、少なくとも悪というものは存在していないと考えることができるでしょう。
 
悪は私たちと神との関係性を弱らせ、離れさせようとする時において働くものであると考えることができます。ゼロか100かの問題ではなく、私たちは神を慕いつつも、忍び寄る悪の影響も多分に受けるということをよく知っていると思います。ですから、私たちの日々の生活において、どうしても悪というものを意識しながら、その毎日を営まなければならないのです。そのようななかで、今日の詩編の言葉は、「神に対するあこがれの思い、慕う気持ち」を抱くことが、何よりも大切なのだということを、歌い手は心の底から歌ったのでしょう。神が私たちの隠れ場となって守ってくださるということへの信頼から起きた言葉でした。
 
神の御国が訪れるその時まで、悪というものがゼロになることは絶対にありません。だから、私たちもこの世界で生きている以上、私たちの内外(うちと)に悪が存在し、忍び寄り、はびこる可能性が十二分にあるなかで、その悪から守られることが、神とともに歩むために無くてはならないのです。その点において、イエスは語られました。それが、今日の新約聖書の言葉に示されています。イエスはそのために神に祈りました。私たちを悪い者から守ってくださいと。そのために、イエスは弟子たちに、「弁護者」である聖霊の働きについて説明されました。そして、その説明ののちにそれが実質的なものとなるように、神に祈りをささげたのでした。
 
私たちは、そのようなイエスの祈りによって、そして聖霊の実質的な働きによって守られているということを胸にして、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。私たちに求められることがあるとすれば、それは、そのように守ってくださる神のなさることに対する信頼の一点です。迷い疑うこともあるでしょう。しかし、私たちはそのたびに、主のもとに立ち帰ることができるのです。
 
皆さんの一日が主の恵みにあふれたものでありますように。お祈りします。

25/08/2026

2026.8.25(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編57編3節
私はいと高き神に
私のために成し遂げてくださる神に呼びかけます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書16章24節
(イエスの言葉)
今までは、あなたがたは私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい朝を迎えました。昨日の涼しさとは一変して、仙台は最高気温が36度まで上がる予報とのこと。全国的に酷暑のようですので、どうぞ健康が守られますように。心からお祈りします。特に、被災の地にある熊本や千葉にある方々の健康が守られることを祈りつつ、一日を過ごしてまいりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「神に願う」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
私たちが神仏に願い事をするというのは、洋の東西、古今を問わず人々が大切にしてきたことでした。どんなに科学が発達し、神の存在が非科学的と言われようとも、人間は見えない何かに対して願い求めることを、決して絶やしたりはしませんでした。そして、私たちキリスト教の環境にいる者もまた、神に祈る際に、願うことを忘れたりはしません。神に願うのです。
 
しかし、神に願ったからといって、私たちの要求がすべて通用するわけではありません。私たちはそのことを大なり小なり経験しているかもしれません。では、そのときに、私たちはどのような思いを抱くのでしょうか。神の「効き目のなさ」に憂い、時には怒りを発したくなることはないでしょうか。神は本当に、私の切なる願いに耳を傾けているのだろうかと疑いを抱かないでしょうか。
 
それが決して「悪い」わけではありません。誤解を恐れず申し上げれば、私たちは「疑いながらも、神を信じる」という営みを繰り返しながら、神の発するみ声というものに耳と心を傾けるということがしばしばあるからです。そして、神が私たちに応答してくださるとき、それは私たちが想像していたこととは違う、しかし、それは私たちにとって結果的に「ベスト」と思えることが神によって応答されるということもまた、私たちの経験にあるのかもしれません。
 
神はご自分にとって、私たちが最高の結果となるために働いてくださる方です。私たちが思い願うベストのかたちと、私たちを創造された神が、私たちの幸いのために働いてくださることとのあいだには「ズレ」というものが生じるかもしれません。しかし、神は今日の詩編のことばにもあるように、「私のために成し遂げてくださる」方なのです。私にとって何がベストか、すべてを御存じある神が、私たちを導いてくださるというのです。
 
だからといって、神がそうしてくださるのであれば、私たちは何も願わなくて良いわけでもありません。たとえ神の思い願いと私たちの願望がずれていたとしても、だからこそ、私たちは神に願い求めることは大切なのだと私は思います。願い求めるうちに、神はご自身のみ言葉である聖書と聖霊の助けによって、私たちをときに軌道修正してくださる力をお持ちだからです。そういう営みのなかで、私たちは、「何が健全な願いなのだろうか」ということを知っていくのではないだろうか。私たちに大切なのは、その紆余曲折とも思える営みのなかで、神の導きを大切にできることなのだろうと思うのです。
 
そのような思いをもって、今日の一日を歩むことができますように。私たちの必要をすべてご存知である神が、今日も私たちをご自分の道に導いてくださいますように。お祈りします。

24/08/2026

2026.8.24(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書48章6節
(神の言葉)
これから私が新しいことを聞かせよう
あなたの知らない秘められたことを。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録17章32節
(アテネの人々は)死者の復活ということを聞くと、ある者は嘲笑(あざわら)い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
主の日、皆さんはどのような一日をお過ごしになられたでしょうか。私自身、主の日の礼拝を通して、神から良いものをいただいて、新しい一週間のスタートを切ることができて感謝でした。この感謝の思いを忘れずに、日々を過ごしてマりたいと思います。まだまだ残暑が続く時ですから、皆さんの健康と信仰がゆたかに守られますように。心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日私が受け止めたいと思ったのは、「神は不思議なことをされる方」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
先日、礼拝に出席しておられる求道者の方から「くすしき」とはどういう意味なのだろうかというご質問を受けました。私たちはこの言葉を、何の疑問も無しに、神を修飾する言葉として用いているのではないだろうか。その方の質問を通して感じたのです。
 
くすしき(奇しき)という言葉は、「奇」という言葉が指し示しているように、私たちの想像をはるかに超える「不思議さ」という意味がともなっていると私は理解しています。「奇術」であるとか「奇跡」という言葉にもあるように、私たちの常識では考えられないものの表現としてこの言葉が使われることを考えれば、奇しき神のみ恵みなどという言葉を用いるときには、神が私たちの想像や常識を超越したところで、良いものを私たちにお与えになられる方であることを想起させる、そんな思いをもって、この言葉を使うことの大切さを思わされるのです。
 
そういう意味で言えば、今日の旧約聖書の言葉が指し示しているように、「あなたの知らない秘められたこと」というのは、神のダイナミックスさを顕著に物語るものとして、私たちは是非とらえていきたい。そんな思いが心にあふれてくるようです。神のダイナミックスさを、私たちの常識や固定観念の枠のなかにとどめてはならないのだと、私は自戒を込めて思わされるのです。
 
その最たるものは、死者のなかから復活されたイエスの出来事に他なりません。死者が生き返るということを真実なものとして受け入れる私たちにとって、これは神業以外に考えられないからです。なにも生理学的に止まった鼓動が復活するということをも超越した、私たちに「新たな命・新たな生活・新たな希望」を与えてくださる神が、今日も私たちとともにおられるということを、私たちはどれだけリアリティをもって受け入れているのかという思いが、今日の聖句を通して問わされているような気がしてなりません。
 
のちに、使徒パウロがアテネでキリストの復活を宣べ伝えたとき、まさに「けんもほろろ」な経験をパウロはしました。まったく相手にされない。当然です。私たちの限りある知識や常識、固定観念のなかで、神を完全に規定することなどできないからです。だからこそ、私たちは、自分の限界のなかで、聖書の言葉と聖霊の導きによって、物事を規定しなければならないけれど、しかし、同時に、それを超越する神のなさることに、柔軟な思いをもって向き合う必要性というものを感じさせられるのです。
 
私たちに求められるのは「キリストという一本芯の通ったところにあって、いかに私たちの思いや心がしなやかであるか」ということだと思います。そんな一日を今日も営むことができますようにと祈ります。そこに神の「くすしき恵み」があることを心から信じつつ。
 
今日も皆さんのすべてに、神の守りと平安を、心からお祈りします。

23/08/2026

2026.8.23(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書48章21節
主が彼らに乾いた地を行かせたときも
彼らは渇かなかった。
主は彼らのために岩から水を流れ出させた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書9章41節
よく言っておく。あなたがたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。この七日間の旅路を、私たちはどのようにキリストとともに歩むことができるでしょうか。私たちのおぼつかない歩みがあったとしても、私たちの手をとってくださるキリストがともにいてくださることを心の糧として歩むことができますように。そのことを思えるためにも、今日も聖書の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する話題は「渇き」でした。今年は世界の各地、特に欧州では渇水に悩まされたと聞いています。暑さに象徴される猛烈な日照りゆえ、私たちの心までもが渇いてしまうような状況のなかで、私たちの心にうるおいを与えてくださる神がおられるというのが、今日のふたつの聖句に共通するメッセージです。
 
イエスが実際に生きておられた、そして旧約聖書の世界であるイスラエルの地は、私たちが想像する以上に、酷暑になやまされ、雨が一滴も降らない季節が半年ほど続く地域です。水資源の豊富な日本では、なかなか想像しにくいかもしれません。そんなときに、私たちの喉を心地よくうるおす水の存在は、大変貴重なものであると言って良いでしょう。
 
私たちにとって「水が当たり前のものとして手に入る」環境のなかでは、水のありがたみのようなものは、なかなか実感できないかもしれません。今日の聖書の言葉は、一杯の水を通して、神が私たちの心をうるおしてくださるというメッセージを通して、神が、私たちの心をなにをもって瑞々しいものにしてくださるのかという問いが、私たちに問われているような気がしてなりません。
 
それはやはり、神が与えてくださる「命のことば」に他ならないのだと、私はあらためて思わされます。私たちは聖書の言葉を大切にすることを通して、神が私たちとともにいてくださることを実感しつつ歩まされています。命のことばに触れることなく、神を感じることはできないと、誤解を恐れず申し上げることもできるのではないかと思うのです。
 
だからこそ、私たちは少しでも、神の言葉に触れる機会というものを、自分自身で確保することが大切なのです。喉の渇きを癒やす水の存在を求めるようにです。当たり前のもの、いつでも得られるものだと思うと、私たちは神の言葉に対する慕い求めも弱くなってしまうのかもしれません。それだけ、神の言葉には、私たちを心底から活かす力というものがあるということを、私たちのなかで問い続けていきたいのです。問い続けていくときに、神は何らかのかたちで、必ず助けてくださるからです。
 
私たちは、そのような神の与えてくださるものをいただくときに、それを周囲に分かち合うことができます。神の言葉が与えてくださる感動というものを、少しでもこの新しい一週間のなかで、分かち合う幸いを味わうことができますように。そこには、キリストがともなってくださっているのだということを信じつつ。
 
今日の一切に、世界じゅうでおこなわれる主の日の礼拝のために、心からお祈りします。

20/08/2026

2026.8.20(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エゼキエル書37章27節
わが住まいは彼らと共にあり、私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章12節
言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
私事、月曜から昨日までの仕事を終えましたが、事情があってもう一日東京に滞在することになりました。昨晩はホテルでゆっくりと休むことができました。疲れも十分に取れましたので、今日も与えられた務めを果たしつつ、神とともに、神の平安のうちに、一日を歩んでまいりたいと思います。
引き続き、被災のもとにあって苦痛を覚えておられる熊本や千葉にある方々のために、祈りを合わせたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「言葉をもってともにいてくださる神」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉であるエゼキエル書37章の言葉は、荒廃のなかにあって、神がそのなかからご自分の息吹を再び吹きかけられることによって、再生していく様子のなかで語られた言葉です。ここで神の宣言がありました。「私はあなたがたとともにいる」と。
 
この「共にいる」という表現こそ、神である「主」のお名前(ヤハウェ)の示す意味でした。「私はいる」と、その昔神は、民たちに対して自らの名の意味を明かされました。どんなに荒れ果てても、希望を見い出せない状況のなかにあっても、私はいると宣言してくださる神が、今日も私たちひとりひとりと一緒にいてくださるというのです。
 
そうすることで、私たちは神の民とさせられる。民とされるからには、しっかりと私たちのことを守ってくださる。これが、夢も希望も見いだせないなかで語られた神の「言葉」でした。その言葉が、後に肉体を帯びることによって、さらに具体化されます。その「受肉化された言葉」こそが、「言(ことば)」と名付けられた神のみ子、イエス・キリストそのお方なのです。
 
イエスの言葉に示されたその根幹にあるものは、まさに「私たちと共にいてくださる神」でした。これがしっかりと根付き、枝葉を支える幹となることで、私たち一人ひとりに、「神の民」として生きることの幸いを、イエスはご自身の身をもって、私たちすべてに明らかにされたのでした。
 
だからこそ、今日の新約聖書の言葉の通り、言葉を自分の心身に肯定的に受け入れ、自分自身の生き方としたいとあこがれていくならば、それを助け、喜んでくださる神がおられるというのです。「神の子となる権能」とありますが、この権能は、私たちの努力や忍耐によって生成されるものではありません。あくまで神が助けてくださるというところに基づいて、私たちひとりひとりをつくりあげる元に他ならないのです。
 
そんな思いを胸にして、今日という一日を歩んでまいりたいと思います。どうか主が、私たちの一日にともなってくださることを心の希望として、歩むことができますように。皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

19/08/2026

2026.8.19(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ヨエル書2章1節
主の日が来る、それは近い。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書24章44節
だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も残暑の一日がやってまいりました。どうか、私たちの健康と信仰を守られる神である主が、皆さんとともにいてくださる幸いを、私たちひとりひとりが感じ取ることができますように。そして、熊本や千葉の地にあって、災害の爪痕で痛みや苦しみを抱えているすべてのかたに、神の慰めや励ましが、ともに豊かにありますようにとお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日私が受け止めたいと思ったのは、「神の時を見る」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
私たちは「終末」というものに対して、どれほどのリアリティを抱いているでしょうか。皆さんが所属される教派によって温度差があるかもしれません。いわゆる「契約主義」や「経綸主義(ディスペンセーション)」のあいだにも、終末に対する考え方はかなり違いがあることが分かります。
 
しかし、どのような主義主張を抱こうとも、私たちキリスト教が共通して信じているのは「世界の終末がやって来る」ということです。いわゆる「世の終わり」と呼ばれるものです。どのようなかたちで来るかはわかりません。しかし、明らかに「その日、その時」は、今日の聖書の言葉にあるように、思いがけない時に神のみ心によってやって来ることに間違いないのです。
 
私はかつて、終末を強調するキリスト教を標榜する団体で信者生活を送っていましたから、ことさら恐怖をあおり立てて、終末をちらつかせるやり方には正直辟易としていることがあります。しかし、だからと言って、私たちは神が定められた「終わりの時」がやって来ることそのものまで、否定することはできないと思っています。そのように聖書に記されているからです。
 
ただし、私たちは自分の意識の如何に関わらず、神の思いのままに「神のタイミング」というものが、私自身に訪れるのだということだけは大切にし続けてまいりたいのです。私たちの常識や願望をはるかに超えた「神のタイミング」は、必ずや私たちに良いものをもたらすのだということへの希望と信仰、そして幸いです。
 
私たちは、いつ自分自身の終わりを迎えるか分かりません。詳細を記すと誤解を招きそうですが、実は一昨夕、私は気を失うということがありました。まったく記憶にないのですが、周りに人が大勢いましたので、適切な処置がなされました。ほどなくして意識を取り戻したのですが、もし、誰もいないところで気を失っていたら、事故とか起きていたかもしれないことを考えると、ぞっとします。(原因ははっきりしていますので、ご安心くださればと思います。今の私はいたって元気ですので。)
 
だからこそ、私たちの意識によらず、常に「神とともに歩む」ことに、充実していたいと心から願わされるのです。「いつまでも生きていると思うな」と心のどこかで思いつつも、神とともに歩む幸いを噛みしめるのです。そのために、自分自身をよく確かめつつ、神の言葉に聴き、祈ること。この循環を大切にしていきたいのです。
 
今日も、そんな一日がやってまいりました。皆さんの生活が、神にあって豊かなものでありますように。心から今日の幸いをお祈りします。

18/08/2026

2026.8.18(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書50章5節
主なる神は私の耳を開かれた。私は逆らわず、退かなかった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書10章39節
マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日から、私の所属する日本基督教団の行事へ、スタッフとして参加するため、東京へ出かけております。「教師継続教育研修会」と呼ばれるものです。スタッフとしてではありますが、私もひとりの「研修生」として、学びの機会をいただいています。そして、同労の友である牧師の皆さんと一緒に交流できることは、とても嬉しく、またありがたいことです。今日も一日、学びの時を得てまいりたいと思います。今日も引き続き、酷暑のなかにあって、特に災害のもとにある熊本や千葉の方々のために、祈りを合わせたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「聴く」ということにまつわるものでした。旧約聖書には「耳を開かれる」という言葉が用いられており、新約聖書では「聞いていた」という言葉が用いられています。私たちにとって聴くとはなにか、そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、大変有名なエピソードです。都エルサレムにほど近いベタニアの村で、イエスの友人であったマルタ、そしてその姉妹であるマリアが登場します。この村を訪れたイエスを、マルタは家へ招きました。イエスを心からもてなしたいと思ったからです。そして、マルタはもてなしのための作業のために忙しくしていました。
 
一方で姉妹マリアは、イエスの足元に座って、イエスの語る言葉に耳を傾けていました。忙しく動き回るマルタと、じっと話を聞き続けているマリアの姿は、とても対照的です。そんな対照的な姿に、いら立ちを覚えたのはマルタでした。マルタの不満はマリアに向けられますが、同時にイエスに対してもその不満の思いが示されました。
 
イエス様、マリアが私の手伝いをしてくれないことを、何ともお思いにならないのですか。手伝ってくれるように言ってやってくださいと。しかし、イエスは、マリアがご自身の語る言葉に耳を傾けていたことを、決してとがめたりはなさいませんでした。イエスはマルタに、マリアから「取り上げてはならない」と告げられました。
 
このエピソードは、「もてなすべきかイエスの話を聞くべきか」という二者択一の話ではないと私は思っています。イエスをもてなすことも、イエスの言葉に耳を傾けることも、大切であり尊い「務め」であることに間違いありませんでした。大切なことは、それぞれに与えられた大切な務めを「取り上げてはならない」という、イエスの言葉にポイントがあると私は思うのです。
 
マルタは、イエスに対して自分のことも注目してほしいと思っていたのでしょう。「何とも思わないのですか」という言葉には、私のことも気にかけてほしい、配慮してほしいという思いが込められています。そこには、マリアに対する嫉妬のようなものも含まれていたのかもしれません。マリアばかりずるいという思いが、イエスに向けられたことが、マルタの発言に表れていると私は思うのです。
 
イエスは、そんなマルタに対して、マリアは、彼女にとって「今、大切なこと」を良いものとして選んだことをマルタに伝えます。マルタにはマルタの良い選択をしたわけですが、マリアもマルタの良い選択をしたわけです。マルタはそのことに不満を抱くのではなく、目を細めて見守ることこそ、大切だったのだと私は思います。それがイエスの価値観そのものだったからです。
 
私たちはイエスの価値観に「耳と心を傾ける」ことこそ大切なのだと。それが私たちの生き方に表れるときに、私たちは誰かをうらやむわけではなく、嫉妬することもなく、それぞれの判断と決断を、主のもとに尊び合えるような生き方ができるのだと思うし、そのことを望んで、今日の一日を生きてまいりたいと思います。皆さんの今日が、そのような神のまなざしによって豊かなものでありますように。お祈りします。

17/08/2026

2026.8.17(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編37編28節
主は公正を愛する方。
主に忠実な人々を見捨てることはない。
彼らはとこしえに守られるが
悪しき者の子孫は絶たれる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書12章17節
イエスは言われた。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も私たちに命と生活を与えられた神が、私たちとともにおられることの幸いと慰めを、私たちひとりひとりに気付かせてくださいますように。特に、被災のなかで今日の一日をも歩もうとされている、熊本や千葉の方々の生活を、神が十分に守ってくださいますようにと祈ります。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日私が受け止めたいと思ったのは、「神の公正に生きる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
神の公正とはなんでしょうか。その文字のとおりですが、神の抱かれるみ心(基準)にしたがって、世界を、そして人々を格差なく取り扱われる態度のことを指します。その結果、時には弱者を救済し、ゆがみを是正し、私たちが神のみ心にふさわしく幸福と平安のうちに歩むことができるように、神が取り計らい、働いてくださるというのが、神の公正が指し示す方向性となります。
 
私たちのことを過不足なく取り扱い、この世界で生かしてくださるのですが、現実の生活は、そのようにはいかないことを私たちはよく知っています。不公平があり、不公正があり、その影響で得をしたり損をしたりするのが、私たちの偽らざる現実なのです。これは、神の願いとは逆行する生き方を、私たちは否が応でも受け入れなければならないのです。
 
なぜ、このようなことが起きてしまうのでしょうか。それは、神の願いを私たちがないがしろにしてしまうからです。それが意識的であろうと無意識的であろうと、私たちは神の公正を無きもののようにして、自分自身の幸せ「だけ」を考えて言動し、生きようとする悲しき性というものを持ち合わせているからと、私は自戒を込めて痛感させられます。
 
しかし、そういう私たちをも、神は公正に取り扱われます。もし、私たちの心のうちに、少しでも神の公正に生きようとする思いがひとかけらでもあるのであれば、神はその思いというものを引き立ててくださいます。私たちが神の公正ゆえに、私もあなたもあの人も、幸福のうちに生かされていることを、互いで共有することが大いに許されていることを知るのです。こうして、結果的に、神の公正をほめたたえることができるのではないだろうかと、私は信じてやまないのです。
 
「神のものは神に返す」とイエスは言われました。神が与えてくださる公正さを知った私たちは、神の公正を自分の生き方として営むことによって、神に忠実さをもってお返しすることができるのだと信じます。こうして、今日も神とともに生きる幸いと平安を感じ取れるような一日でありたいと、心から願わされます。
 
どうか、今日の一日が、そのような思いに満たされて、神の公正を慕い求める時となりますように。心からお祈りします。

16/08/2026

2026.8.16(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書60章10節
異国の子らはあなたの城壁を築き
その王たちもあなたに仕える。
私は怒りをもってあなたを打ったが
恵みをもってあなたを憐れんだ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一5章9節
神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得られるように定められたのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。その初日であるこの主の日、世界中でおこなわれる礼拝のすべてが、私たちの新しい七日間の旅路を豊かに導き、祝福されていることを望みつつ、今日も神の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「神の義憤」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書のなかで、神はご自分の民に対して、怒りを示されたことが記されています。しかし、怒りという感情は、私たちのなかでは負のものとして捉えられることが多くあると思いますし、それは事実です。私たちは不用意に、自分自身の怒りというものをあらわにすることが、愚かな行為であるということが、しばしば言われているわけです。
 
そのようななかで、神の怒りというものを、私たちはどのように捉えたらよいのだろうかと考えるのです。神の怒りを都合よく持ち出して、私たちが怒ることを正当化する材料にするのでしょうか。私たちは、神の怒りというものに対する、健全な意識というものを抱いていることは、本当に大切なのだと思います。
 
神の怒りは、正しいことがなされない「ゆがみ」に対してのものであることを、私たちは忘れてはならないのだと思います。神の正しさは「人間のいのちを活かすこと」にあることを、私たちはどれだけ認識しているだろうかと問い続けることは大切です。つまり、そのことに私たち人間が気づかないときに、神は怒りという感情を示されるのです。
 
しかし、怒りが怒りのままで終わることは決してないということが、今日の旧約聖書・新約聖書の両方に記されているのは、大変興味深いことと言えます。怒るが憐れみを示される神でもあるのです。怒りが怒りのまま残ることはありません。人が神の正しさに生きようと決意して、神と歩調を合わせて生きようとしたときに、神は怒り以上の憐れみを示されるということも、私たちは決して忘れてはならないのです。
 
そのために、命を投げ捨ててまで私たちにとことん付き合われた救い主イエスがおられ、その様子を怒りつつも、それ以上の憐れみをもって見守られた神がおられるのです。この神御自身の定められた思いによって、私たちひとりひとりが生かされているということを、今週一週間を生きる柱にしていきたい。これが私の受け止めたいと思ったメッセージでした。
 
神の憐れみに生きるために、神の正しさに自分自身を沿わせているかということを問いつつ、今日の初日を迎え、過ごすことができますように。皆さんの主にある守りと祝福を、特に、被災のもとにある熊本や千葉の方々のためにお祈りします。どうぞ素敵な一日をお過ごしくださいますように。

15/08/2026

2026.8.15(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編95編6節
さあ、ひれ伏し、身をかがめよう。
私たちを造られた方、主の前にひざまずこう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書17章16節
そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。帰省によるUターンラッシュも、そろそろ始まることかと思います。どうかすべてにおいて安全が守られますように。そして、熊本の地において、そして千葉の地において集中豪雨で不便と不安を感じておられるすべての方々に、神の守りが十二分にありますように、心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、今日私が受け止めたいと思ったのは「ひれ伏する」ということについてでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
ひれ伏するとは、「両手をつき、頭を地につけて礼拝すること」(広辞苑第七版)とあります。身を低めること、頭を下げること、手を出さないことなど、いろいろなイメージを私たちに呼び起こします。
 
そして、日本にとって、おそらくひれ伏することと同列に置かれている言葉に「土下座」というものがあります。土下座も似たような意味があるかと思います。「相手に恭順の意を表すため、地上にひざまずいて礼をすること」(広辞苑)とあります。しかし、土下座という言葉には、相手に対する強い反省や謝罪をするときに行うものという意味も含まれるかもしれません。もっとも、そのような意味が、土下座に含まれるようになったのは、第二次世界大戦後、時代小説や時代劇などで使われるようになったからだと言われているようです。
 
私たちは、聖書に書かれている「ひれ伏する」を考えるときに、人に対する謝罪や許しを乞うしるしとして行うものというイメージをもって、ひれ伏することを考えるよりは、神に対する敬意と感謝ゆえに、自分自身の身を低めるということの象徴的なしるしとして、ひれ伏するというイメージをとらえるということが、大切なのだと私は考えます。
 
私たちが神によって造られ、命与えられたことに対する感謝のしるしとしてのひれ伏するという行為、サマリア人がイエスに対して感謝の心をもって自分自身の身を低めてひれ伏したという出来事など、今日の聖句に記されていることは、最大限の感謝と好意ゆえの私たちの表現であることを、前向きに受け止めたい。私が今日思ったことです。
 
明日の礼拝において、私たちはどのように神に感謝や好意をもって、礼拝のときを過ごすことができるでしょうか。実際的にひれ伏するということはなかったとしても、心と思いは、神にひれ伏する精神をもって、主を礼拝する喜びにあふれたいと願います。そのための備えの一日として、今日という日が神の祝福にあふれますように。
 
今日の皆さんの一切が、神の守りと祝福のうちにありますように。心からお祈りします。

13/08/2026

2026.8.13(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編105編8節
主は心に留められる
主の契約をとこしえに
命じた言葉を幾千代に

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章20節
神の約束はすべて、この方において「然り」となったからです。それで、私たちはこの方を通して神に「アーメン」と唱え、栄光を帰するのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
台風の影響もあって、昨日の仙台は強い雨が地を叩きつける時間帯もありましたが、何とか台風も本州を抜けて、ホッとひと安心です。しかし、台風の爪痕も各地であったようですし、新たな台風もやってくるとのこと。引き続き、安全が守られますように。そして、今日も熊本の地で不自由を感じているすべての方々に、神の慰めと励ましがあることを、引き続き祈りたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神は約束を必ず果たされる」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
神は幾千代、つまりいつまでも絶えることなく、ご自分が人間に対して宣言された約束を反故にされることはないと、歌い手は詩にしたためました。神はご自分の約束を「契約」のかたちにして、人間に与えられました。
 
もちろん、契約ですから、神が出された約束に対して、人間はその約束に対する責任を果たさなければならないということが必須でした。それが破られるならば、契約破棄という、私たちの世界では当たり前の展開となります。実際に、これまでの歴史のなかで、人間は神が提示され、そして締結された契約内容を、何度も何度も破り続けてきました。それは、聖書、特に旧約聖書に記されているとおりです。
 
しかし、にもかかわらず、神は人間とのあいだに結ばれた契約を破棄されることは決してありませんでした。それどころか、人間がいとも簡単に破ってしまう契約が空しいものとならないために、「究極の契約」を提示されました。それが、まことの人でありまことの神となられた、み子イエス・キリストだったのです。
 
イエスはその言葉と生き方によって、契約の本質を私たちに見せてくださいました。そして、最終的には私たちの命のために、自らの命を犠牲とされるまで、私たちとの契約を大切にされました。犠牲となった命が終わることなく、復活をとおしてその約束が永遠にわたるものであることを、私たちに明らかにしてくださいました。
 
今日の新約聖書の言葉にもあるように、「神の約束はすべて、この方(イエス・キリスト)において『然り(そのとおりに)』となった」というのは、まさに、イエスによって神の約束が決して反故にされることがなかったのだということを、私たちに事実として提示されたのでした。私たちはただ、この出来事に対して「アーメン(その通りです)」と認めることこそ、契約における責任を果たすことなのだと、私はあらためて受け入れたいと思ったのです。
 
こうして、神と人間との契約が、私たちを活かすためのものであったことを想いつつ、また、契約をないがしろにしない神のなさることに感謝しつつ、少しでも「アーメン」と私たちの生き方において示すことができますように。今日一日の、皆さんの一切に、神の平安と祝福が豊かにありますように。心からお祈りします。

12/08/2026

2026.8.12(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編103編13節
父が子らに憐れみをもたらすように、
主を畏れる者らに憐れみをもたらす。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙4章6節
あなたがたが子であるゆえに、神は「アッバ、父よ」と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
台風が関東地方に上陸し、そのまま本州を横断するようです。少しでも災害から心身を守ることができますように。そして、熊本地震で苦しみを覚え続けているすべての方に、神の守りがありますことを、心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「父」でした。父とは、まさに父なる神のことを指すわけですが、あらためて父なる神の姿というものについて、聖句より黙想したいと思います。
 
まず、今日の詩編の言葉103編13節には「憐れみ」という言葉が記されています。親が子をいつくしむような憐れみの思いを引き合いに出して、父なる神は私たちをいつくしみ、憐れんでくださるというのです。心の底から相手の痛みや弱さに共感し、温かく守ろうとする深い愛情や同情心が、憐れみという言葉の根底にある意味なのです。
 
また、この言葉から派生したものに「内臓」や「胎内」という言葉があります。お腹を痛めて宿した子を産むくらいにまで、母親の子に対する深くいとおしむ気持ちにも相通じるというのです。
 
この思いをもって、父なる神は、私たちひとりひとりの痛みを知り、それを担おうとしてくださるというのが、今日の旧約聖書の言葉が指し示す意味なのだと、私は受け止めることができました。たとえ人には理解してもらえなくても、私の神は私の悪いところも良いところもご存知であり、変えられるべきところは神の愛をもって変わるように、素敵な部分はそれが引き立つように、神は深い憐れみをもって私たちに助けを与えてくださるのです。
 
こうして「神の子」とされる私たちですが、その私たちにはモデルがいることを忘れてはなりません。「アッバ、父よ」と父なる神に呼び求めた、救い主イエス・キリストその御方です。イエスは神に憐れみを求めました。神が御自身を憐れんでくださることを疑うことなく信じていたからです。そして、救い主としての使命を貫徹されたのでした。
 
私たちは、このイエスに倣う者となることが許されているのです。そのために、御子の霊、つまり聖霊の善き力にしっかりと守られながら、今日という一日をも生きていくことが可能とさせられていく。このことを心の希望として、歩んで生きたいと思います。皆さんの一日に、神の平和と憐れみが、ともに豊かにありますように。心からお祈りします。

11/08/2026

2026.8.11(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編143編8節
歩むべき道を教えてください。
私はあなたに向かって魂を高くあげます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章68~69節
シモン・ペトロが答えた。
「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も暑い夏の一日を迎えました。仙台は昔のように30度を超えない日々を過ごしていますが、各所で酷暑とも言える陽気のなかで、健康が守られますように。そして、台風が直撃しようとしている関東地方が、危険から守られますように。震災後の熊本の地に、少しでもそこに住まわれる方々の安全が守られますように。そのことをお祈りしつつ、今日の聖書の言葉に聴きたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「私たちの歩む道を、神はご自分の言葉を通して備えてくださっている」でした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉である、ヨハネによる福音書6章は、長い物語となっています。イエスは、ご自分の言葉を聞こうとする大勢の人々を前に、奇跡を通してそれらの人々の空腹を満たしたり、病気をいやされました。そして、会堂においては、神の言葉を取り次ぐことを通して、人々の心に神の思いを吹き込みました。
 
しかし、人々のなかには、イエスを通して語られる神の言葉に対して、拒否感を示す人もいました。「あまりにもひどい話だ」と言う人たちもいました。イエスの語る言葉に付いて行くことができずに、その場を離れ去った人たちもいました。神の言葉に拒否感を示す人間の思いというものは、古今東西変わることがないということを、私たちはこれらの物語を通して知ることができます。たとえ神によって良いものを私たちがいただき続けているのにもかかわらずです。
 
神から良いものを得ているのにもかかわらず、自分自身のなかに起きる拒否感は、それだけ私たちは「自我の強い存在」であることの紛れもない証拠です。自我の強さが、神のなさることを受け入れなくさせてしまうことだって、私たちの生活には往々にしてあるのです。しかし、そのことに開き直る生き方を営み続けているのであれば、私たちは神を拒み続けて生きることになってしまうことも、また間違いない事実なのです。
 
そのような私たちに、イエスは近づかれました。今もご自分の言葉をもって、私たちに神の愛というものを示し続けておられます。その示された道を、私たちは「教えてください」と問い尋ね続け、また、ペトロによって語られた信仰告白のように、その言葉を自分自身を活かす無くてはならないものとして、受け入れることの幸いというものを、私たちは自我の現実を見つめつつも、前向きにとらえていきたいと心から願います。
 
神を信じたい。しかし、拒んでしまう自分がある。だからこそ、そんな私たちにイエスは今日もともにいてくださり、良いものを授けてくださる。このことが幸いなのだということを胸にして歩むことができますように。皆さんの一日に、神からの祝福と平安がありますように。心からお祈りします。

10/08/2026

2026.8.10(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編103編19節
主は天に王座を据え
その王権はすべてを治める。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書25章31~32節
人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められる。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
お盆休み前の平日の一日を迎えました。すでに休まれている方もおられるかと思います。私も今日から土曜日まで休暇のひと時をいただきました。普段できないことに手をつけながら、ゆっくりと休暇を楽しみたいと思います。皆さんの一日にも、神の守りと平安がともに、豊かにありますようにお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神は私たちのすべてを治められる」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
私たちの神は、全世界を治める、つまり統治される方であることは、今日の聖句が語っているとおりですし、私たちは、その統治のもとに生かされている神の民であることに間違いありません。統治者に求められていることとは、私たち民を幸福へと導くということに他なりません。
 
しかし、私たちの神の統治があるのにもかかわらず、この世の中は本当に神の統治にふさわしいものとなっているでしょうか。相も変わらず差しさわりがあり、人と人との間に起こる亀裂や衝突が後を絶ちません。自分だけが得をしようとする思いが、他者の大切なものを奪い取り、不均衡や不条理が私たちの世界を容赦なく襲うこともあるのです。そんなことを考えると、神の統治など本当にあるのだろうかと、首をかしげてしまうのです。
 
しかし、それは神の統治不足なのでしょうか。私たちの神は、そのような不均衡に大なたを振るって強制的に是正することを、拙速に行われません。忍耐をもって、私たちの動向をじっくりと見守っているのです。そして、イエスという救い主を差し出されることによって、イエスの生涯における言葉と行いによって、神の統治のもとに生きるとは、どのようなことかをその生き方で示されました。命を私たちに与えられることによって、その尊さということを、私たちひとりひとりに示されたのは、神の統治の何物でもないと言えるのです。
 
神の統治のもとに、神の願いにふさわしく生きることの幸い。どんなに統治者が素晴らしくても、その統治のもとで生きる私たちがそこに同調しない限り、世の中はいつまでもゆがみに満ちた世界になることは間違いないのです。だからこそ、私たちの姿勢というものが問われていることを、私たちは今日の聖句からじっくりと聴きとりたいと思います。
 
神の御国の民として、今日も神のみ心に生きる者となることができますように。神の言葉と聖霊の助けによって、今日一日が主にあって健やかであることを、心からお祈りします。

09/08/2026

2026.8.9(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書42章9節
見よ、先にあったことは実現した。
そこで、私は新しいことを告げよう。
それが起こる前に
私はあなたがたに聞かせよう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書13章37~38節
良い種を蒔く者は人の子、畑は世界。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間を迎えました。世の中はお盆休みで移動をされたり、ひと時の休みを楽しまれると思います。そのすべての予定に、神からの守りと平安が、皆さんとともにありますように。私も今週は、いつもよりもゆっくりできるので、いつもできないことなどをゆっくりとおこなおうと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「新しいことをなしてくださる神」です。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
神は常に新しいものを私たちに見せてくださいます。しかし、その新しさは単なる物珍しさや、一時で輝きを失う打ち上げ花火のようなものではありません。私たちを活かすために、新しいことを私たちに示してくださる神がおられるということです。私たちが何の変哲もない生活を歩むのではなく、日々ますます神がおられることに感謝して歩めるように、ひとつずつ、私たちが受け取れるように、神は新鮮さというものを与えてくださるのです。
 
そのことを、私たちは神の言葉を通して、ひとつずついただくことができるのです。私は、このような日々の聖句が、その日ごとに私たちの命を活かす言葉として、新鮮さを私たちに与えるものなのだということを受け止めています。いろいろなディボーション雑誌があり、毎日聖書に親しめるように準備されているわけですが、どのような媒体でも良い、たったひと言の聖句でも良いのです。その言葉を通して、神が私たちに新鮮さを与えてくださるのであれば、これは、イザヤ書で神が私たちに告げておられることに相通じるのだと、私は受け入れたいのです。
 
人の子であるイエス・キリストは、こうしてご自分の言葉を私たちの心に種を蒔くように、蒔いてくださるのです。私たちの心が土壌であり、その土壌が畑となり、その畑こそ世界そのものだというのが、今日の新約聖書でイエスが告げておられることです。私たちがそのような畑となるべく、神に養われて育ちゆくことができますように。今日の世界中でおこなわれる礼拝が祝されますように。その礼拝から、活きる活力というものを得ることができますように。お祈りします。

08/08/2026

2026.8.8(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編25編5節
あなたこそ、わが救いの神。私は日夜、あなたを待ち望んだ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章7節
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。この七日間の旅路をどのように過ごすことができたでしょうか。私自身も、その日々を振り返りながら、神がその旅路を導いてくださったことを指折り数えながら、一週間を締めくくりたいと思います。
 
今日の新約聖書のことばは、イエスによって語られた勧めです。求めること、探すこと、そして叩くこと。その相手は、私たちの神です。神を求め続け、神が与えてくださる道を探し続け、神が準備してくださる門を叩き続けることの幸いというものを、イエスは弟子たちに対して、そして、私たちに対して語りかけてくださいました。
 
以前、こんな話を聞いたことがありました。「求め続けているのに、神は何も答えを与えてくださらない」と。その方は、長い期間、あることで苦しみ続けてきました。その苦しみから解放されたくて、ずっと神に祈り続けていました。しかし、神はこの私から苦しみを取り去ってくれない。そのことを嘆いておられました。
 
苦しみのただなかにあって、なかなかその苦しみから脱しきれないほど、つらいことはありません。神が求めなさい、探しなさい、叩きなさいと言っておられるのにもかかわらずです。しかし、その方はやがて、自分自身を襲う苦しみと向き合うようになりました。苦しみは決して消え去ることはありませんでした。しかし、この苦しみを御存知である神が、一緒にその苦しみを担ってくださるということに、その方は気付いたのでした。
 
その方は悟りました。神は、私のうちにある苦しみをすべて取り除くという道を与えられるのではなく、どんな時にも神が一緒にいてくださり、慰め励ましてくださるのだということを、自分自身が生きるための、無くてはならないものとすることができるのだと。このことは、その方にとっては人生を営むための、神から与えられた大きなプレゼントとなったのでした。
 
大切なことは、自分の思うようにならなくても、神は必ず、その方にとってベストなタイミングをもって答えを与えてくださるということです。そのことを求め、探し、叩き続けることができるように、神は私たちに「待望する」心をも与えてくださるということなのです。私が今日の聖句を通して、受けとめたいと思ったのはこのことでした。
 
どうか、明日への備えの一日が、神の祝福に満たされますように。心からお祈りします。

07/08/2026

2026.8.7(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ゼファニヤ書3章14~15節
娘シオンよ、喜び歌え。イスラエルよ、喜びの声を上げよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び歌え。主は、あなたに対する裁きを取り去られた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章17節
キリストは来られ、遠く離れているあなたがたにも、また近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせてくださいました。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も暑い夏の一日となりそうですが、どうが私たちの健康が霊肉ともに神から守られて、少しでも健やかに過ごすことができますように。そして、熊本の地にあって、痛み苦しみを覚えておられるすべての方々に、神の慰めと励ましが豊かにありますようにと、心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったメッセージは「平和の福音」という、新約聖書・エフェソの信徒への手紙の一節でした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今、私がお仕えしている教会に、夏季伝道実習生として来会している神学生が、先日の礼拝メッセージのなかで、「平和とは、状態が『普通』そのもののことである」とおっしゃっておられました。私は、実にありふれたこの言葉に、強烈なインパクトを受けたのです。
 
普通とは、波風立たない穏やかな状態のことを指すのだと私は受け止めました。確かに、平和という言葉には、日本語でもその文字のとおりに「平らかな」という意味が含まれますし、実際に聖書で日本語に訳されている平和(ヘブライ語:シャローム、ギリシア語:エイレーネー)にも、そのような意味があります。
 
しかし、平らかとひと言に言っても、それはとても難しいことであるということも、私たちはよく知っているのではないでしょうか。私たちの心に波風が立ち、時に嵐となり、私たちの心をしばしば騒がせます。人間関係にざわつくものを感じ取る時に、私たちはなかなか平らかな心境などにはなれないと思うのは、日常茶飯事なことかもしれません。
 
だから、普通という言葉には、とても奥深く、含蓄のある意味合いが私たちひとりひとりに向けられているのだと、あらためて思わされるのです。平和を愛し、平和を希求したいと心から願っても、実際的に私たちは平和を愛せないがゆえに、普通でいられないのです。
 
普通でいる「ふり」はできるかもしれません。その場を乗り越えるために「大人の対応」も取ることができるかもしれません。しかし、それでは何も根本的な解決には至らないということを、私たちは痛感しなければならないのです。もちろん、大人の対応を否定しているわけではありません。しかし、その場限りの、仮面的な態度が、究極の平和を生み出すとはとうてい言えないというのが、自戒を込めた私の偽らざる心境です。
 
今日の聖書の言葉には「平和の福音」と記されています。平和がこの地にあまねく広がりゆくためには、「福音」が無くてはならないものなのだということを、今日の聖句は如実に物語っています。ここで言う福音とは、まさにイエス・キリストが私たちに語られ、行われ、犠牲となって私たちのために最も大切ないのちを与えられたことすべてが、福音の本質であるというのです。
 
私たちが「普通」でいられるために、イエスは自らの命を私たちにささげてくださいました。人命の重みは、普通という言葉と対極をなすものです。この犠牲の重さを心に抱きつつ、普通になれない私たちひとりひとりが、キリストに対して普通であることの尊さというものを、ぜひ噛みしめてまいりたいと心から願わされます。これが、私が今日得たいと思ったことでした。
 
どうか今日の一日が、キリストの平和に満たされた「普通」の生活を営めるような一日でありますように。私たちひとりひとりのあいだに、キリストの平和が大黒柱として据えられますように。心からお祈りします。

06/08/2026

2026.8.6(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編65編9節
朝と夕べの始まる所に
あなたは喜びの歌を響かせてくださいます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録16章34節
看守は二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は、広島に原子爆弾が投下されて81年を迎える記念日です。決してほめられたものではない記念日ですが、この日を通して、あらためて平和とはいったい何であろうかということを、じっくりと考える一日として過ごしてまいりたい。そんなことを想いつつ、今日のみ言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「世界中に神の平和がいきわたる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書のことばである詩編の一節に「朝と夕べの始まる所」という表現がありました。朝の始まる場所は東であり、夕べの始まるところは西と考えれば、神のつくられたすべての場所でと読むことができると私は思いました。ちなみに、今日の聖句の65編9節の前半部分には「地の果てまで」とあります。私の決して知ることのないところまで、神の平和は漏れることなく広がりゆくことを示す賛美のことばなのだと私は思います。
 
私たちの知る世界は、非常に限りある範囲内のものであることを、私たちはよく知っています。どれだけ情報網や交通網が発達したとしても、私たちが知ることのできる量というものには限界があるのです。私たちは限りある世の中で、時に他人事となり、ある時には「井の中の蛙」となってしまうのです。世界のどこかで、大なり小なり人と人、国と国とのあいだに憎しみや戦いが繰り広げられたとしても、私たちは自分自身の限界というものを、認識しなければならないのです。
 
そのようななかで、神は東西南北のすべてをつぶさに見ておられるのだというのが、私たちの信仰なのです。神が不在の世界などありえないのです。もしあるとするならば、それは私たちが神の存在をないがしろにする時なのでしょう。あるものをないものかのように扱うときに、私たちは限界という壁にぶつかり、それを乗り越える方法として平和と逆行するような行為に走ってしまうのです。
 
しかし、そうではないのです。神のなさることに私たちは自分たちの限界を超えて働かれることを知った時に、そこには喜びがあり救いがあるというのです。今日の新約聖書のことばは、大地震というアクシデントに遭遇してパニックになった牢獄の監守たちに、主の弟子のふたりであるパウロとシラスが、救い主イエスを信じることの幸いを伝えることで、それら看守に平安と喜びを与えました。そして、命救われたことをともに喜ぶことができたのでした。これは、私たちの想像を超えた神の力によるものでした。
 
大切なことは、私たちがいかに限界あるなかにあったとしても、希望を忘れることなく神のなさることに信頼を寄せて生きることができるか。そんなことを、私は今日の聖句を通して問う一日でありたいと思ったのです。
 
今日の一日が、神の平和を心から感じる時となりますように。心からお祈りします。

05/08/2026

2026.8.5(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
出エジプト記19章4節
(主の言葉)あなたがたを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たことをあなたがたは見た。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章10節
これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日、東北地方にも梅雨明け宣言が出されました。いよいよ本格的な夏と思いきや、今年の仙台は暑すぎない日々が訪れています。昔の仙台の夏を知る者にとっては、「久しぶりに仙台の夏らしい夏がやってきた」といった声をよく耳にしますし、私もそう思います。一方で、酷暑とも言える地方が多くありますし、熊本では40度前後の最高気温となっているとも聞いています。危険な暑さのなかにあっても、健康が十分に守られますように。そのことを祈りつつ、一日を過ごしてまいりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の守り」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
私たちが神の守りを思うときに、私はいつも「神の創造のみ業」というものに想いを寄せるようにしています。そもそも神が人間をおつくりになられたとき、神はどのような思いをもってつくられたかということへのイメージです。神は天地のすべてのものを創造されるなかで、被造物すべてを管理するために、人間を「ご自分のかたち」に似せてつくられました。
 
つまり、人間は神御自身の抱かれるさまざまな性質に似た者として、神の愛情をたっぷりと受けてつくられたということです。親子が似るように、私たち人間は、神がこの世界に対して望まれるみ心に沿って生きることこそが、神の創造の目的に適った生き方であることを、私たちひとりひとりに知らせています。
 
そして、神は創造の業をすべて終えられたときに、「それはとても良かった」と絶賛しておられます。これ以上ないまでに、私たちは神の喜びをともなってこの世界に生み出されるということを大切にするならば、少しでも健やかで平和な日々を歩むことができるのだということを、私たちは心から喜びたいのです。
 
よく「神を喜ばせる」という言葉をよく聞きますが、誤解を恐れず申し上げれば、神を喜ばせるということ以上に、「神の喜びを受けて、自分の喜びとする生き方」という言い方のほうが適切なのではないかと思うのです。神を喜ばせるために、あれこれ努力することは決して悪くはないのですが、時に私たちは「神を喜ばせようと思うことが、神が示される喜びに沿っていない」可能性だっていくらでもあるのです。それは、私たちが「ゆがみ」、つまり根本的な罪(神とともに生きることを拒否する思いと行動)を、基本的なところで有しているからです。
 
だからこそ、神と歩調を合わせて生きる喜びとは、神による創造のみ業を通して、感じとることができるものなのではないかと、私は思えてならないのです。
 
そのような思いを胸にして、今日の一日を歩むことができますように。神は必ず、私たちの心を守り、ご自分のみ心へと導いてくださることを信じつつです。皆さんの生活すべてに、神の祝福と喜びが豊かにありますように。心からお祈りします。

03/08/2026

2026.8.3(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編100編3節
主こそ神と知れ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録11章18節
(使徒ときょうだいたちは)「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を崇めた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まり、昨日はそれぞれの場所で主の日の礼拝のときをお過ごしになられたことと思います。今日から始まる週日の日々にも、神が皆さんお一人お一人に親しく臨んでくださいますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「私たちの想像をはるかに超える神」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、使徒ペトロがキリストによる救いを宣べ伝えるなかで、救いの「範囲」というものが、それまで救いの外にいたものと思われていた、ユダヤ人以外の「異邦人」にも及んだことに触れたことを、都エルサレムに報告したなかでの一節です。
 
これまで、ユダヤ人のあいだでは、救いの外にある異邦人に対しては、触れることすら忌み嫌われるような態度で接していたことが伺えます。もともと、神がイスラエルの民を自分の民として選んだことが、イスラエルの民たちに特権意識のようなものを生んだのでしょう。彼らのあいだから、異邦人に対するそのような思いが芽生え、定着したのでした。
 
異邦人にキリストのよいたよりを伝えたペトロを、ユダヤ人たちは汚らわしいと批判しました。しかし、ペトロのそのような行動は、自らの意思というよりは、神が幻を通してペトロにそのようなアプローチをされたからでした。あくまでペトロは、神のみ心によってそのようにしただけでした。これまで自分たちがそうであると信じ続けてきた壁が、神によって打ち破られる一瞬がここにあったのです。
 
だからこそ、ペトロの報告を聞いたキリストの弟子たちは、素直に神を賛美し、あがめることができました。私たちの固定観念を超えて、新たなステージへと進ませてくださる神が、私たちとともにおられるのだ。このことは、今日の旧約聖書の言葉である詩編100編3節にある「主こそ神と知れ」という、詩人の賛美に直結するものなのだと、私は受け止めることができたのでした。
 
今日も、私たちの心を更新してくださる神が、私たちに新たな思いを授けてくださいますように。皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

01/08/2026

2026.8.1(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
申命記5章21節
隣人のものを一切貪ってはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙5章16節
私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
8月を迎えました。そして、今週も最終日を迎えました。
昨日から、東京にある「学生キリスト教友愛会(SCF)」と、明治学院東村山高校ボランティアチームの皆さんが、仙台に来てくださっています。東日本大震災以来、私が働く東北教区センター「エマオ」と深いつながりにある、荒浜・笹屋敷町内会がおこなう夏祭りのボランティアをされるためです。昨日今日と、エマオを宿泊場所に利用してくださっています。感謝です。私も、後ほど夏季伝道実習に来ている神学生とともに、仙台の被災地を訪ねたいと思います。今日も一日が充実したときとなりますようにと祈りつつ、ローズンゲンに示されたみ言葉に聴きたいと思います。
 
今日与えられたふたつの聖句を通して、私が大切にしたいと思ったメッセージは、「尊厳を守る」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、「十戒(申命記版)」の一節でした。隣人のものを貪るなと、神はモーセを通して語られました。つまり、この戒めを考える際に、そもそも、私たちに与えられた「人間が幸福のうちに生きることのできる」こと、つまり「尊厳」というものは、どのように生まれるのかという問いは、大変重要なものとなります。
 
私たちは、さも自らの所有物や権利というものを、私だけの独占物のように考えます。それが目に見える現実ですから、そう思うのも無理がありません。しかし、その思いが助長すると、人が大切にしているものまで、我が物顔で奪ったり踏みにじったりするのも、悲しきかな、世の中の現実なのだと私は感じています。
 
だから、私たちが人間として幸福に生きるために、無くてはならない「尊厳」の源と言うことについて考えるのは、本当に必要なのだと私は思うのです。神がモーセを通して与えられた十戒のなかに、隣人のもの(尊厳)を貪る、つまり奪い取ってはならないと記載されているのは、尊厳の与え主は、私たちの神に他ならないという、基本的な教えによるものなのです。もちろん、私たちには自由が保障されていることに間違いないのですが、だからと言って、決して、私たちが好き勝手にできるようなものでないということを、私たちは深く認識する必要があるでしょう。
 
だからこそ、今日の新約聖書の言葉でも言及されている通り、「霊によって」、つまり、私たちは神の真心である聖霊の導きによるからこそ、私たちは他者を隣人とすることができるし、隣人が大切にしている物事は、神から与えられているのだと言う認識が生まれてくるのです。だからこそ、貪るという身勝手な行動から、自分自身を守ることができるし、神が守ってくださるということが、自らの尊厳にもつながっていくのでしょう。私は、今日の聖句をそのように受け止めたいと思いました。
 
どうか、今日の一日もまた、そのような神の守りのもとにありますように。熊本の地にあって被災しているすべての方に、神の慰めと実際的な助けがあることを、心より祈りつつ過ごしてまいりたいと思います。どうぞ、キリストにあって、素敵な一日をお過ごしください。