26/09/2022

2022.9.26(月) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章18節より
私を立ち帰らせてください。
私は立ち帰りたいのです。
あなたこそ私の神、主だからです。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書20章27節
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
私たちには帰る場所が確かにある。
 
今日与えられたふたつの聖書の言葉を通して、私が感じたことです。私たちには確かに帰ることのできる場所がある。神のふところという場所にです。
 
神から遠く離れてしまったような経験。私たちは昨日も礼拝の機会をいただくことができました。日曜日は教会へ行って礼拝のひとときを持つということが、すでに習慣となっておられる方も多くおられるかと思います。それが身体に染みこんでいる。それは、今日の旧約聖書の言葉を述べた預言者エレミヤの時代も同じでした。イスラエルの民は、神殿での礼拝を自分たちの習慣としていたはずです。
 
しかし、どんなに宗教行為をしても、イスラエル人の心は神から遠く離れていた。この心を神に立ち帰るようにと告げることを、人生の務めとして与えられたのがエレミヤでした。機械的に行うことができても、そこに心がともなっていない。実は私もこういうことがしばしばあったりします。行っているということだけで、すべてが満足したような気分になってしまう自分自身を見つけることができるのです。
 
もちろん、行いは大切だと私は思っています。行いを通して自分自身の心のありよう、心のうちにある本心というものが隠れたところから顔を覗かせ、それに気づかせることもあるからです。ただ、そうであれば良いのですが、知らず知らずのうちに神を信じている、神とともに歩んでいると思いこみながら、自分の思いや心、行いが明らかに神とともに歩んでいないなあと思わせられることもある。
 
だから、帰る場所が必要なのだと、今日の聖書の言葉を通して痛感させられたわけです。神から「帰っておいでよ。私はあなたをこれからも守り続けるから」という、神の声が聞こえてきます。「私はあなたと共にいる」という意味の名を持たれた神が、どんなに遠く離れてしまった私に手招きをして、また迎えてくれる。安心して帰る場所があるならば、またやり直すことができるのだと。いわゆる「失敗」をしたら、感嘆に見捨てられてしまうような世界とは違うところに、神が与える幸いがあるのだと。私はそのようにこの言葉を受け止めたいのです。
 
イエスの弟子のひとりであったトマスは、ほかの弟子たちに遅れて復活のイエスと出会いました。なかなか復活の真実を受け止めることのできないトマスに、信じるという場を与えてくださいました。そして手にしっかりと付けられた釘跡を見せて、それに触れさせようとされたのがイエスでした。見て、触れて、確かめることのできるような場を、信仰の実体であるイエスが、トマスにともなってくださった瞬間がここにありました。
 
私たちが探し求めなくても、さ迷い歩かなくても、帰る場所が確実に供えられている。私たちにできることは「帰りたい」というひと言なのかもしれません。このような黙想が与えられたことに感謝しつつ、新しい一日を歩みたいと願いました。皆さんの一日も、神様の豊かな守りと祝福がありますように。心よりお祈りいたします。

0 件のコメント:

コメントを投稿