11/09/2022

2022.9.11 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
サムエル記上24章20節
サウルによるダビデへの言葉:
お前が今日、私にしてくれたことに対し、主は豊かに報いてくださるであろう。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章17節
誰にも悪をもって悪に報いることなく、すべての人の前で善を行うよう心がけなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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悪に悪をもって返しても、そこには何の益もない。
神が与えられる善を信じて、ただ誠実に生きることの大切さ。
 
誰でも悪意に基づいた言動を受けたら「仕返ししたくなる気持ち」が起きてくるのは当然のことであると私は思います。最近、以前テレビでも人気を博したドラマ『半沢直樹』を観ることがあるのですが、主人公である銀行マン・半沢直樹が「やられたことはやり返す。倍返しだ!」と叫ぶシーンは、ドラマをご覧になられた方ならば、私のみならず、多くの方々の記憶にあることと思います。
 
ただ、ドラマを観ていますと、半沢による倍返しは、決して単なる「仕返し」ではなさそうです。姑息な手や謀略を使って人をだましたり、窮地に陥れているわけではありません。むしろ逆で、そういう悪意をもって人を罠に落とし込もうとする勢力に対して、あくまで誠実に向き合い、真実を明らかにすることによって、そのような悪意に立ち向かっているようにも思えるのです。まるで水戸黄門でも観ているかのような、勧善懲悪的なものを感じるのは私だけでしょうか。
 
やられたことをやり返すとき、悪意で受けたものを悪意で返してしまうならば、その時はすっきりするかもしれませんが、悪意が増幅され、それが繰り返されるだけです。そして、悪意のあるところには、神が入り込む余地などなくなってしまいます。つまり、神が不在であるところに、人間だけでそのドラマを繰り広げ、負の連鎖をつくり上げてしまう。これが、聖書に描かれている人間の歴史そのものなのではないかと思うのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、イスラエルの王ダビデを悪意をもって追い続ける前の王サウルに対して、ダビデが悪意をもってし返すのではなく、あくまで神の御心に立って、神が与えられた王としての意味というものを問いつつ、誠実さをもってサウルに応じた結果、それがサウルの心に突き刺さったゆえに、サウルがダビデに語ったひと言です。
 
お前が私にしてくれたことを、神は豊かに報いるであろう。それは、ダビデに対して悪意を抱き続けていたサウルにとって、そもそも抱いていた神の誠実さが、一瞬だったとしてもその心によみがえりました。悪意ではなく神の誠実に生きることは、それに触れる人々にも影響するということを表した歴史のひとコマと言えるでしょう。
 
もし、私たちにもとめられる「仕返し」があるとするならば、神の誠実を身と心に受けた者として、まず自分自身が神の御前にあって誠実に生きることで起きる応答、仕返しなのだと、私は今日のふたつの聖書の言葉を通して黙想させられました。
 
悪意を被らせる相手を意識すれば意識するほど、そこに生じるのは怒りや憎しみの感情です。しかし、憎しみが助長される対象を見るのではなく、ただ神を見つめ、神が私たちにご自分の言葉をもって与えられる誠実と真実を見続けることで、生まれるものは必ずある。そこに私自身焦点をあてて、今日という一日を生きたいと願わされました。
 
週のはじめの日、世界中でおこなわれる主の日の礼拝や集会すべてに、そのような神の誠実から起きる善が私たちを囲み、平和な道へ進むことができますように。お祈りいたします。

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