20/09/2022

2022.9.20 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ42章1節より 
私は彼に私の霊を授け
彼は諸国民に公正をもたらす。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書10章42~43節より
あなたがたも知っているように、諸民族の支配者と見なされている人々がその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となりなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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神は、ご自分の僕(しもべ)たる者に、ご自分の御心を授けることで、その僕は、この世界に対して公正をもたらされた。今日の旧約聖書の言葉がそのように私たちに示しています。
 
公正とは、その字のとおり、公に正しさが示されることです。つまり、神が公正を示されるというのは、公に神の正しさが明らかにされ、その影響によって世界が進んでいくことを意味しています。その公正さは、神がお選びになった僕によって具体的に明らかにされることが、神の願いであるということになります。
 
僕とは誰のことでしょうか。それは神の民とされている者すべてであると言って間違いありません。神の御心はご自身の霊、つまり聖霊の働きによって私たちひとりひとりの生き方に神の公正さがあふれてくることを、神は期待しておられます。別の言い方をすれば、神の喜びというものが、私たちひとりひとりの存在そのものであって、私たちが神の喜びによって生きるときに、神の公正さが全世界に広がりゆくことを、今日の聖書の言葉は私たちに希望として告げているのです。
 
昨日、イギリス前国王であるエリザベス2世の葬儀が執り行われました。多くの方々がライヴィに釘付けになったのではないでしょうか。そして、葬儀はとても感動的なものであったという感想を多く聴きました。私は残念ながら観ていないかったので、想像の域を超えないのですが、ひとりの人物の葬儀がここまで感動を呼び起こすのは、その人物を通して神の荘厳さや公正さというものが明らかにされたことが、自覚無自覚の別にかかわらず、人々のあいだにあったからなのではないか。そう思ったりもするのです。少なくとも、キリスト教葬儀の目的とは、故人をたたえることではなく、故人の生涯を通して神が公正を示され、祝福と喜びをその人の人生に与えたということの表明の機会であると、私は思っています。
 
イエスは、神の公正について、それは世界の王たちがふるうような支配のかたちとは一線を画したかたちで弟子たちに伝えています。王なのだから、トップダウンに人々を支配するのはある意味当たり前のことです。しかし、そうであってもそうではない。人々に仕える僕であれと、イエスはそう語られました。神の御心に仕え、その仕える心が具体的にこの世に示され、人々に示されるときに、神の公正さが明らかにされるのだと。人間に中心になるのではなく、神が中心に立たれる正しさというものがです。
 
仕えるというと、奉仕という言葉が私たちの思いや心に浮かびます。人よりへりくだって、人のしたがらないことをすることこそ奉仕なのだと。そのような話を耳にすることがあります。確かにそうかもしれません。しかし、奉仕とは結果として、神御自身の公正さがあふれ出ることが主な目的であって、私たちの頑張りが目的ではありません。神の喜びというものがこの場にあふれ出るようなもの。それが仕えるということのもたらすものなのだとすれば、神が私たちに僕としてお選びになられていることを、もっと自分自身の生き方というものに反映できるようにしていただきたいと、私は願わされました。

今日も全世界に、神の公正が示され、広がりゆくことの喜びを、私たちひとりひとりが味わうことができますように。お祈りいたします。

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