12/09/2022

2022.9.12 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編78編3~4節
これは私たちが聞いて知ったこと
先祖が語り伝えたこと。
これを子孫に隠さず語り伝えよう。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書10章8節
ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日は夕方の配信となってしまいました。疲れたせいか朝早く起きることができず、午前から病院へ行っていたこともあったからです。朝お読みになられるのを楽しみにしていた皆さんへは、申し訳ないことをしてしまいました。
 
ですので、今日選ばれた聖書の言葉を通して、一日を振り返るような思いで、黙想をしてみたいと思いました。ローズンゲンの発祥であるドイツ・ヘルンフート兄弟団は、朝と夕に会堂へ集まり、御言葉に聴き祈るときをもっていたのだそうです。朝に御言葉に聴いて一日生きる力とし、夕に御言葉に聴いて振り返り、感謝を思う時とした。御言葉に生かされる喜びというのは、こういう連続性のなかにあることを、改めて思わされます。
 
今日の旧約聖書の言葉を通して、私は「隠さず語り伝える」という言葉に立ち止まりたいと思いました。もちろん、私は牧師という仕事のなかで「守秘義務」というのを大切にしなければならないですから、そのような守秘を打ち破ってすべてを明らかにしなければならないという意味ではないことは承知しています。しかし、神が私たちにご自分の言葉と行いをもって示されたことは、隠す必要も理由もどこにもないのだと、そう感じるのです。
 
私は、神の御業というものを大胆に伝えたいと思っても、周りの状況であるとかある種の配慮のためにそれを差し控えたり、その場の状況に合った言葉を選んで語ることがあります。そのような一定数の配慮は必要だとは思いつつも、その動機というものがどこにあるのかを問わされることがあります。この配慮はいったいどこからくる配慮なのかと。
 
私たちがもろもろ配慮の心を働かせるときに、それが過剰に「人におもねる」ものになっていないだろうか、そんな自問自答をすることは本当に大切なのだと思います。つまり、配慮しているつもりが忖度(そんたく)してしまっている。人との関係の維持ばかりに気を取られてしまうがゆえに、神がなさることへの期待や希望というものを、脇に追いやってはいないだろうかと思わされることがしばしばあります。
 
宗教は怪しい、怖い、関わりたくない。カルト宗教問題が再燃している今、世間の宗教に対する風当たりが強くなっているからこそ、私は今何をしなければならないのかということを、まじまじと思わされます。自分たちが悪く言われないために防御線を張るのだろうか、それとも、自分が今まで受け取ってきた、何の掛け値もないなかでの神の御業というものを、ただただ真摯に期待して、自分に与えられたつとめというものを、淡々と誠実に果たすことなのだと。それが伝道の肝なのではないかと。そう思えてならないのです。
 
ただで受けたのだから、ただで与えなさい。救い主イエスによる言葉です。お金を積まなければ幸せになれるとか、なにか忖度をして、気に入られればご利益があるとか、そんなことをすべてを排除した世界に、私たちを招き入れてくださるイエス。このイエスによって私たちは生きる道を与えられたのだと。そう思ったら、とても楽な気持ちにさせられるのは私だけでしょうか?
 
そんな神の御業を一人でも多くの方々と分かち合いたい。イエスが何の条件も掛け値もなく、私たちに命を与えてくださった。そんな一日を今日も過ごすことができ、心から感謝したいと思います。どうぞ皆さんの夕べのひとときも、神の守りと平安がともに、豊かにありますように。お祈りいたします。

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