18/09/2022

2022.9.18 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
民数記9章18節より
イスラエルの人々は主の命によって進み、主の命によって宿営した。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙3章17節
何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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主なる神の命令によって進み、また宿営する。
 
今日の旧約聖書の言葉は、エジプトの地を脱出したイスラエルの民たちが、神によって約束された土地に向かうまでに何を生活の基本にしたか、ということについて語られたものです。
 
主の命令によって、という言葉が何を意味するのか。そのあたりを黙想したいと思いました。旧約聖書に対応する今日の新約聖書の言葉は、それを「主イエスの名によって」というひと言で表現していると、私は受け止めました。
 
私たちは、主のご命令によってと聞けば、何をイメージするでしょうか。プロテスタント教会に属している私なんかがすぐに思いつくのは、聖書の言葉にしたためられた神のご命令であるというイメージです。そして、それを律法の言葉のように感じてしまうこともあったりするわけです。
 
しかし、この時に注意しなければならない。そう思うことがあります。聖書において、イエスの名によって行うことが大切にされるべきこととは何なのか。イエスは、そのことをしっかりと弟子たちに伝えていることがわかります。
 
「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのだ。」
(マタイによる福音書22章37~40節)
 
この二つの戒めに、律法全体と預言者、つまり当時それしかなかった(旧約)聖書の全体がかかっているのだと、イエスは語られました。つまり、イエスはその人の命を尊び、守り、ともに歩んでくださる神の愛が基礎にあってこその、神のご命令であることを明らかにされます。その神の愛が人々のあいだに分かち合われることが、隣人を愛するという具体的な私たちの生活へと反映されるのだと。
 
イエスが宣教中、一番批判したのは「神の愛が取り除かれた律法の解釈と運用」でした。律法を生活指針とする人々には、その動機というものが問われました。その動機こそが、神がどのように人間を取り扱われているのかということへのイメージであり、そのイメージこそ神の愛であるというのです。
 
ですから、私はこうあらためて思わされました。神の愛を聖書から聴きとり続けることで、神の愛が具体的に私たちの生活にどのように働き、私たちの生きる決断となり、それによって日々を歩み、そしてときに休息することでそれを振り返ることができるのかを確かめ続けていく大切さがあるのだと。
 
私自身、神の愛をはき違えていると感じることが多々あることを思わされます。神は本当にそのことをお望みなのだろうか。聖書に示されたことばを文字を追って読み進めるにしても、そこにも私たちの思考や感情には限界というものがあることを認めるならば、自分の思いや心というものを絶対化して、それを盾にして、剣にして振舞おうとすることから少しでも解放されるのではないか。自戒しながら、主の命令によって歩み、宿営するものでありたいと願わされました。
 
今日、世界中でおこなわれる主の日の礼拝や集会のすべてが、御言葉に示された神の愛によって立ち止まるひととき、そして歩み出すスタートとなることができますように。そのことを祈りつつ、一日を過ごすことができますように。お祈りいたします。

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