27/09/2022

2022.9.27(火) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ダニエル書11章32節より
自分の神を知る民は揺るがず行動する。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙11章24節
信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの娘の子と言われるのを拒みました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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自分自身が「揺るがないため」にはどうしたらよいか。そんなことをふと考えました。強靭な精神力と体力、経済的に困ることのない財力、社会的な立場や地位、それを支えてくれる人々など、いろいろなことが考えられます。そして、そのことを追い求めるために日々努力する。そのことに歯を食いしばって頑張って成果を見る。これが社会の一般常識のように私は思ったりします。
 
そのようななかで、今日の新約聖書の言葉をみますと、のちに出エジプトのリーダーとして神から用いられたモーセが、なにを「揺るぎない源」としたのかについて記されていることに気づかされます。モーセは成人したとき、ファラオの娘の子と言われるのを拒んだと聖書には記されています。
 
ファラオの娘の子。つまりエジプト王族のひとりとしての地位であることを拒んだのがモーセだったというのです。世間一般の感覚であれば、王族であることのほうがまさに「揺るがない人生」でい続けるためには、絶好の機会であるように思えるのです。何一つ生活に不自由しない環境が、王族には備わっている。これをあえて拒む理由はどこにあるのだろうか。そう思われるのが自然なのではないかと。
 
しかし、モーセはそうではなかった。モーセは「信仰によって」そのようにしたと、聖書は私たちに伝えます。彼にとって揺るぎないことへの源は、この世の中一般で受け入れられているような地位や名声、体力や精神力、経済的な裕福ではなく、自分自身の命を守り、育み、励まし慰め、祝福を与えてくださる神の助けと導きであったということです。
 
結果として、モーセのその後の人生は、実に波乱万丈に満ちあふれたものでした。まさにそれは「いばらの道」と言っても言い過ぎではない、そういう人生をモーセは歩むことになります。王族のままでいれば、絶対に経験することのなかった人生であり、ある意味で言えば、安定を捨てた馬鹿な奴と思われてしまうような人生の選択でした。
 
しかし、どうでしょう。モーセはエジプトの圧政のもと奴隷とされ、苦痛を覚えながら生きていたイスラエルの民が、再び神の守りによって生きることができるために、その人生を神とともに歩んだ。そのことがすなわち、神によって実に揺らぐことのない人生が与えられて、神とともに歩む幸いというものを経験することができた。それがモーセでした。
 
神が与えられる揺るがなさ。これはなかなか受け入れられることがないかもしれません。目に見えて安定を提供してくれるもののほうが、揺るがないために必要だと思われるのです。神を信じたところで飯が食えるか。それが現実です。だから、神を知り、理解し、信じるというのが、まるでお花畑の話のように思えるのかもしれません。
 
しかし、神とともに歩むという道は、結果として神の揺るがなさを実感できる道なのだと、私は希望のうちに受け止め、それを握りしめながら神にすがって歩みたいのです。何とかなる。神がそうしてくださるから。もちろん、独り善がりな思いを神が実現させてくださるというのとは違います。神に与えられた使命というものを誠実に果たそうとするときに、自分自身が神によって与えられている命の尊さを大切にしようとするときに、必ず神はおぼつかない歩みをする私を、しっかりと支えてくださるに違いない。いや、支えてくださるのだと。そして、祝福を与えてくださる神がおられるのだと。
 
そんなことを黙想しながら、今日の聖書の言葉をいただきました。今日も相も変わらず私の状況は、そして心は揺らぐでしょう。しかし、私がどれだけ揺らいでも、神がともにいてくださる。それだけで十分な慰めと励ましを思う、ひとときをいただくことができました。感謝です。どうぞ、皆さんの一日にも、揺らぐことなく私たちの命を守ってくださる神がともにおられることを、実感できる出来事がありますように。お祈りいたします。

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