17/09/2022

2022.9.17 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編89編15節
正義と公正は王座の礎。
慈しみとまことはあなたの前を進みます。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙3章12節
ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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慈愛を土台とした正義。
 
今日与えられたふたつの聖書の言葉を通して、私の心にこんな言葉が思い浮かびました。正義という言葉をめぐって、黙想を深めてみたいと思います。
 
昨日、こんな会話がありました。どうしてプロテスタント教会にはこれほどまでの教派やグループが数多く存在するのだろうか、という問いについてです。ある意味、プロテスタント教会の「お家芸」というか、アイデンティティーとも言えるのが、いわゆる「多種多様なかたち」であるとも言えるでしょう。もちろん、組織内に多様な考えがあったとしても、カトリック教会のような監督制度のように、教皇の勅令のようなものに全世界の教会が倣うというものは、プロテスタント教会にはありません。
 
プロテスタント教会における500年の歴史のなかで、教派やグループというものは「神の御心を御言葉に聴き、より具体的に表現した」ゆえの産物であると私は思いますし、そこにはそれらグループをつくりあげ、それを保ち、改革していった信仰者の信仰の表明であるとも思っています。それも、神が多種多様なかたちを祝福として与えていると信じたいのです。
 
しかし、どうしても避けられない現実もあります。多種多様なかたちの「違い」ゆえに、ときに葛藤が起き、衝突が生まれ、それぞれが抱く「正義」がぶつかり合うということです。自分自身に与えられた道は「正しい」と信じているからこそ、違いが生まれ、その違いも表出されるわけです。私は、違いというものがこの現実の世界で、完全に無くなることはないと思っています。むしろそれらが明らかにされてこそ、私たちはなお、神の御心を求めるべく動かされるとも思っているからです。
 
ただし、私は今日の御言葉を通して是非とらえたいと思いました。それは、私たちの正義の土台がどこにあるのか、ということです。今日の聖書の言葉には、それは神がこの世界を愛し、私たちを愛し、いつくしんでくださるということが示されています。つまり、この神の慈愛があってこそ、私たちの正義というものもまた神から与えられたギフトであることを、私は忘れてはいけないのだ。そう思ったのです。
 
それぞれに与えられた正義がぶつかり合う。しかし、大切なのは、その正義から神の慈愛というものを取り除いてしまうならば、正義の衝突は犠牲しか生まなくなってしまうということなのだと私は思います。自分自身を中心に物事を動かそうとする「自己正義」が、神の慈愛に基づいた正義を押しつぶしてしまうのです。
 
多種多様な世界のなかで、その違いゆえに葛藤や衝突が起きたとしても、本日の詩編のことばのように神の慈愛がしっかりと土台に据えられて、そのうえに私たちが立たされているならば、神の慈愛を土台とした正義のおかげで、少しでも何かを乗り越えることができるのではないか。そう願いたいのです。決して神の威を身にまとって、自分自身の正義をさも神の正義のように振る舞うようなことがないためにもです。
 
そんなことを心に刻みながら、今日も多種多様な私たちの姿の足元に働かれる神の慈愛を感じ取りながら、生きてまいりたいと思います。皆さんの一日に、神様の祝福と平安、そしてなによりも慈愛が豊かにありますように。お祈りいたします。

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