16/09/2022

2022.9.16 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書32章18節
私の民は、平和な住まい、安全な家
心配の要らない安らぎの場に住む。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章19~20節
ですから、あなたがたは、もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なる者たちと同じ民であり、神の家族の一員です。あなたがたは使徒や預言者から成る土台の上に建てられています。その隅の親石がキリスト・イエスご自身であります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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私は、今日の新約聖書の言葉に触れるたびに、思い出すことがあります。教会が「神の家族」であるというくだりについてです。
 
この手紙のなかで述べられている教会とは、そこに集められた者が「もはやよそ者でも寄留者でもなく、聖なるものたちと同じ民」であることについて触れられています。ここで言うよそ者とか寄留者というのは、神の民として選ばれているという自負のあったイスラエル人からすれば、差別の対象にあった人たちでした。
 
しかし、教会とはそういうものではなく、もはや差別のない世界なのだ。私はこの聖書の言葉からそう読み取りたかったのです。しかし、ある方のご指摘でその考えは一変します。「教会の場こそ、差別のある現実のただなかで生きていかなければならない所なんですよ」。その方は、ご自身の人生で差別と闘い続けてこられた方でした。この世の中で、そして教会のなかですら現実に起きている差別に対して。
 
究極的には、神はご自分の建てられる御国において、何の差別もない世界を完成されると私は信じています。しかし、神の国の先取りと言えども、欠けの多い私たちのなかには、しっかりと大なり小なり差別意識というものを抱えながら、教会という世界のなかで、また自分が関わる社会のなかでもがきながら、また時には加害者となりながら生きているのだと思います。
 
ですから、私たちは神の国が完成させる目標を心から望みつつ、欠けが多いなかにあっても、今の自分自身にできることを誠実に向き合っていくことが必要なのだと感じさせられます。そのときに、今日の新約聖書の言葉で触れられているのは「隅の親石であるイエス・キリスト」である、ということなのでしょう。
 
イエスがこの世に人間のかたちをとられて、差別に満ちあふれた世界のなかでどのように神の国の良いたよりを伝え続けられたか。私たちは現実に起きたそのことを自分自身の生き方に無くてはならないものとして、とらえ、それを握りしめつつ、心から期待しつつ、日々を生きること。それが苦闘のなかにあっても、いっときでもいい。安住できる場が神によって与えられる望みとなるのだと信じたいのです。
 
理想論に逃げるのではなく、現実に目を背けることなく見つめながら、イエスが与えられたこと、神が示される御国に望みを置く一日でありたいと願わされました。そのような思いが重ね合わされるところにこそ、神の家族としての喜びがともに、豊かにありますことをお祈りいたします。

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