19/09/2022

2022.9.19 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編103編6節
主は虐げられているすべての者のために
正義と公正を行う。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書12章46節
私を信じる者が、誰も闇の中にとどまることのないように、私は光として世に来た。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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私は光として世に来た。

イエスは人々に対して、自分自身の目的について語られました。それは、神がこの世界をつくられたその最初から示されたことであったと私は受け止めました。
 
神は天地創造の最初に「光あれ」と宣言されることによって、混沌であった世界にご自身の働きを加えられたことが、旧約聖書・創世記の冒頭に記されています。混沌。それはぐちゃぐちゃな状態であり、闇が深淵の極みにまで及んでいて、とうてい光が届くことなどありえないと思えるくらい、闇に覆い囲まれていたことを想像できます。
 
しかし、光あれ!と神が宣言された途端に闇に光が投じられることによって、そこに整理がつけられました。光を光として感じることのできる世界が始まり、そこから多くの命が神によって生み出されます。命は光を必要とする。まさに、神の働きは無理とも思えるような状況を可能なものとし、闇のなかでもがき苦しむことのないように、すべてを整えてくださった。それが神の御業そのものであるというのです。
 
今日の旧約聖書の言葉で、神は虐げられている人々のために、ご自分の正義と公正を明らかにされることが描かれています。虐げられている状態。それはまさに闇のなかをさまよい歩いている状態に相通じるような気がします。光を見い出したい。しかし、光が見えない。そんなイメージです。そのような闇の奥深くに一条の光が差し込むときに、神は私たちのためにご自分の正しさというものを示されることを宣言されます。この正しさによって私たちは闇のなかで光を見い出すように、命を得、それによって生きることができるのだと。
 
神の正義の公正を自分自身の生き方とし、神の御業を何よりもの希望であると宣言し、それを私たちに示されたのがイエスでした。私は光としてこの世に来たというイエスの目的は、その言葉どおりに、神が与えてくださる光によって日々の生活に希望を抱くことができるのだと。私たちに教えてくださいました。まさに、そのイエスという信仰の実体を、私たちは神からギフトとしていただいているのだと、今日の聖書の言葉は私たちに伝えています。
 
闇に囲まれてどうにもならない。私自身、そのことでもがきます。神の御業を知っているのに、自分自身の正直な思いで張り裂けそうになることもあります。しかし、だからこそ、イエスの言葉に秘められた光をいただきたい。そう思いたくなるし、すがりつきたい。そして、少しでも光を感じることができるときに、ああ、神は生きて働いておられるのだということを、心の底から実感することができるのだ。できているのだと喜ぶことができる。今までもそうだったし、これからもそうなのだと信じることができるのだと。
 
イエスという信仰の実体を、御言葉を通していただくことが今日もできることに感謝したいと思います。今日の一日もまた、そのような日でありますように。日本では台風の災害が、また世界中で起きているさまざまな災いによって闇を感じるなかにあっても、神があててくださる光が、大きな慰めと励ましの源となりますように。お祈りいたします。

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