17/02/2022

2022.2.17 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編25編5節より
あなたの真実によって導き
教えてください。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書8章31~32節より
私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
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私の言葉にとどまるならば。
 
イエスは、弟子たちに対してこのような言葉を投げかけられました。とどまる。それは、宿泊する・滞在するといった意味でも用いられるメノーというギリシア語です。
 
イエスが語りかけられた言葉を、私の心にとどまらせる。目の前を通り過ぎるのではなく、旅人が荷を降ろして、宿に心も身体も休ませるようにとどまらせる。宿屋でゆっくりと心身を休めれば、それが明日を旅する活力となるように、イエスの言葉が私にとっての生きる力になる。
 
メノーという言葉には、そんな意味が込められているのではないか。私はそんな黙想をしました。私の言葉にとどまるならば、「あなたがたは本当に私の弟子である」と、イエスは言われました。
 
弟子は、師の思い通りに操ることのできる存在ではありません。師の模範にならうことで、師の示す良いものを自分のものとすることができる。それが弟子です。イエスが弟子づくり・弟子訓練をしたのは、イエス自身の利益のためではありませんでした。一貫して、弟子が幸いな者となるためでした。
 
それが、真理を知ることによって味わう「自由」です。イエスが、どうして弟子のことに触れた後で、自由について語られたのか。そこに弟子づくりの真髄というものが表されているのではないでしょうか。
 
人間は勘違いします。まるで隣人を縛り、奴隷のように支配するために、誤った弟子づくりをしようとするならば、そこに自由は絶対に芽生えません。そのような環境には、本当の意味で、イエスの言葉がとどまっていないからです。聞こえても、聞いたつもり、ただ言葉が通り過ぎていく姿を眺めて、それで満足しているだけなのかもしれません。
 
私自身の心にイエスの言葉がとどまっているだろうか。イエスの弟子になりたいと、心から願っているだろうか。そんなことを問わされます。イエスは、私たちのために言葉を与え、自由への門戸を広げてくださっています。そのことを今日の聖書の言葉を通しても、私たちに宣言されました。
 
イエスは、自分の命をすべて投げ打ってまで、私たちをご自分の弟子にするために生きられた。そして、今もなお生きて働いておられるイエスが、私とともにいてくださる。これが今日を生きる希望の糧なのだと、私は今日の聖書の言葉を受け止めたいと願います。
 
イエスの言葉にとどまることで得る心身の休息、そして自由。イエスの弟子となることで芽生える安心感と喜び。そこにはいかなるゆがみや縛りがないことを心から期待できる、今日の一日でありますように。お祈りいたします。

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