19/02/2022

2022.2.19 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
歴代誌下30章8節
あなたがたは、かたくなであってはならない。主に服従しなさい。主の聖所に来なさい。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書14章15節
同席していた客の一人が、イエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
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今日の新約聖書の言葉にある「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」という発言は、どこから来ているものなのでしょうか。そのあたりのことを考慮に入れつつ、黙想してみたいと思います。
 
この発言をしたのは、ある宴会に招かれていた一人でした。その人は、イエスのたとえを聞いていました。そのたとえは、最初から上席に座るものではない。末席に座ることの謙遜さを教えるものでした。
 
また、見返りを期待するような招き方をするな。そういうことを期待しないところにこそ、神の与える幸いがあるのだということを、人々にお知らせになりました。それを聞いた宴会客のひとりが、神の国の食卓、つまり交わりがなんと幸いなことかと絶賛したのでした。
(詳しくは、ルカ14章7~14節をご覧ください)
 
つまり、神の国の幸いとは、誰もおごり高ぶることなく、見返りを求めない世界の幸いです。この点において、私は自分自身の姿というものを思い起こします。おごることのない謙遜な態度、損得勘定や見返りを期待しない思い。いずれも、私にとってはとても耳の痛い、厳しい言葉です。
 
これが、今日の旧約聖書の言葉が伝える「かたくなさ」なのだろうと。結局のところ、自分のプライドとの闘いなのだと。自分の中で手離せないものがある。怒りの感情、やるせなさ、許せない思い、傷、トラウマなどなど。それは、自分を大切にしてほしいという承認欲求の気持ちから起こるものです。この度が過ぎると、手離せなくて、自分の心を包む殻が頑丈に固くなってしまう。つまり、頑固な自分自身をつくり上げてしまう。
 
そういう自分自身を発見すればするほど、とてもつらい思いにさせられます。しかし、イエスは神の国で食卓をともにする幸いというものを、私たち一人ひとりに約束しておられるし、そこに生きる幸いを味わわせようと働いてくださっている。宴客のひとりが「なんと幸いなのでしょう」と絶賛できるような場を、イエスは設けてくださっているのだと。
 
頑固な私にできることは、そんな私でも、イエスの前に進み出ることの一択しかないのだと。主の聖所に進み出ること。宴への招きに、招かれる資格などないと思っても、まず、その招きに応じてみること。そこから一歩が始まるのだと。
 
特に、私たちは何かに失敗をし、とても辛い思いにさせられたとしても、やり直しが利く、明日の一歩に私たちのおぼつかない足を進ませてくださる神がおられるのだという、今日の聖書の言葉に、慰めと励ましを得たい。そう思ったのです。
 
一週間の振り返る最終日の今日、それでもなお、ここまで歩んでこれたことに感謝して、神の言葉に聴従できるような一日でありたいと願いました。そこにこそ、神の国の幸いがあることを信じて、その幸いが私たち一人ひとりを包み、祝福あふれた時となりますように。お祈りいたします。

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