29/11/2025

2025.11.29(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編84編11節
あなたの庭で過ごす一日は
私の選んだ千日にもまさる。
神の家の戸口に立つことは
悪の天幕に住まうにもまさる

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章49節
すると、イエスは言われた。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。一週間も今日で最終日を迎えました。皆さんにとってのこの七日間、どのような出会いがあったでしょうか。さまざまな出会いのなかで、そこから私たちが神によって生かされていることの幸いを振り返ることができますように。そんな思いをもって、今日のローズンゲンにしめされた御言葉に心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは、「私たちにとって最高の出会いというものでした。そのことについての黙想をつづりたいと思います。
 
私たちが日々出会うさまざまな出来事や人々があったりいたりします。私自身も、今週の日曜から始まった七日間は、実に多くの出会いがありました。教会での出会い、月曜には他教会の方々との出会い、そして火曜からは台湾にある多くの方々との出会いがありました。どれもこれも、私自身の心が躍る喜びにあふれた出会いであることは間違いありませんでした。
 
しかし、私は思うのです。それら数多くの出会いのひとつひとつに、私たちの神である主との出会いがその時ごとに与えられているということをです。私たちは物理的に出会いを経験します。しかし、そのことを単なる「出来事」だけでとらえるのではなくて、一見すると何の意味ももたらさないような出会いの機会であったとしても、そこにどのような意味があるのか、どのような意味が神によって与えられているのかということに思いを寄せることもできるのです。そのことを通して、私たちは出会いはまさに神との出会いなのだという実感へと導かれるのだ。私はそのように受け止めたいのです。
 
今日の新約聖書の聖句は、少年であったイエスが神殿で神との出会いを喜びのうちに経験したことについてのエピソードが収められています。両親はイエスはどこへ行ってしまったのだろうと心配しました。しかし、そんな心配をよそにイエスは神との出会いを通して、自分が今ここにあることを喜んだのでした。神殿をただ詣でるということ以上に、その意味をイエスは問うたがために、喜びを味わうことができたのでした。その思いこそ、今日の詩編の一片にもありますように、主の家で過ごす一日は、千年にもまさる喜びを人に提供しているのだということができるのでしょう。
 
私は、ついつい見逃してしまうような些細な出来事であったとしても、そこには神との出会いが必ず備わっているのだということをしっかりと受け止めたいと思いました。このことに気付くことのできる心が、神によって養われることを心から願いつつ、今週一週間の締めくくりを楽しみたいと思います。今日は研修地の台南から南の高雄へ移動します。そして、明日の高雄での礼拝に備えたいと思います。
 
皆さんの一日のためにお祈りします。

28/11/2025

2025.11.28(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書66章22節
私の造る新しい天と新しい地が
私の前にいつまでも続くように
あなたがたの子孫とあなたがたの名も
いつまでも続く――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章49節
ナタナエルはイエスに答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。今日も一日のすべての歩みが、神である主とともにあるがゆえに、充実したものとなりますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「王であるキリストのもとに生かされることの幸い」というものです。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちにとって、自分の人生を幸福なものへと治め、支配してくださる方こそが、やがて来たる神の国(新しい天と新しい地)の王となられるイエス・キリストであるという信仰が、旧約聖書の時代から現在にいたるまで脈々と受け継がれてきた。この歴史的な継承のうえに、私たちの人生がまた建てられていることを、今日の聖句を通して想わされるのです。
 
私たちは、自分が「神の国に属する民」であることを頭では分かっていても、それにともなった実感というものがなかなか味わえないこともあることでしょう。その見えるかたちとして、私たちに与えられたのが、キリストをかしらとする教会であり、その教会が「キリストのからだ」という言葉で表現されている通りです。
 
しかし、教会を取りまく現実は、到底キリストのからだのようには思えないということもあるかもしれません。問題や課題が山積するなかで、信仰生活を営むというのは決してたやすいことではありません。これらのことのどこに神の国が存在しているのだろうか。そんな疑いや迷いが生じることもあるでしょう。
 
しかし、そうではありません。私たちは自分の国を治める方が良い政治を期待するわけですが、その為政者の気持ちに同意し、そこに協調して自分自身の生活を営もうという気持ちがなければ、どんなに為政者がよい政治をしたとしても、幸福にはつながらないのです。得られるものだけ好き勝手に消費して、勝手気ままに自分の欲望だけを追求するならば、その国はつぶれてしまうでしょう。
 
だからこそ、為政者の想いを自分自身の想いに統合させる必要があるのです。もちろん為政者の助けを借りてのことです。そのことが、神と私たち、そして私たちが神によって与えられた教会の営み、また教会から押し出されて日々を歩む私たちの生活と実に同じことが言えるのだと、私は受け止めたいと思ったのです。
 
そのことを具体的にイメージするために、今日も私たちは聖書の言葉に耳と心を傾けることができますし、自分の思いを祈りを通して神に向け、神が指し示してくださる道というものを歩むことが大いに許されています。そのことを心の希望として、一日を歩むことができますように。皆さんの主にある幸いを、心からお祈りします。

27/11/2025

2025.11.27(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編81編8節
あなたが苦難の中で呼ぶと
私はあなたを助け出した。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書14章30~31節
ペトロは風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も皆さんの一日を神である主が守ってくださいますように。心からお祈りします。私は火曜から台湾基督長老教会と日本基督教団の教会協議会という会議に出席しています。台湾の教会の姿勢や働きから多くを学ぶ機会を頂いています。学ぶだけではなく、それをどのように日々の宣教の働きに生かすことができるだろうか。そんなことを考えながら過ごしています。あらためて学ぶこと、交流することの大切さを噛みしめています。感謝です。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは、「必ず助けてくださる神」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
本当に助けてくださるのだろうか。すぐに助けてくださるのだろうか。望むように助けてくださるのだろうか。そんなことが頭や心をよぎることがあります。神が助けてくださるということに確信を抱いているからこそ、私たちは神を信じることができるのだということは間違いないと思うのです。しかし、「自分自身の思うように」神が助けてくださるのだろうかと言えば、そのようにはなかなかならないと思うのが、私たちの現実であるかもしれません。だからこそ、苦難というものを私たちは味わうのだとあらためて思わされます。
 
そんなときに、今日の聖句のような「神は私たちの苦しみに手を差し伸べ、必ず助けてくださる」ということを彷彿とさせる言葉に出会うと、自分自身の現実と照らし合わせては、多少のズレというものを痛感させられるのです。ただ、そういうことがあるからこそ、私たちはなおのこと、神の御心というものを真剣に尋ね求めるきっかけとなることもまた事実なのです。ズレがあることを神の責任に押し付けるのではなく、まず自分自身に対して認知・認識のズレというものがあるのだろうかと、丁寧に分析することができるのだと。そのために私自身の心や思いを整える大切な機会となるのだと私は信じたいのです。
 
私たちの苦しみを理解してくださる神は、私たちの苦しみの根源が、神とともに生きるがゆえの痛みや苦しみであるならば、神がそんな私たちをそのままにされておくはずがないというのが、今日の聖句が語るメッセージの中核にあるものです。たとえ認識のズレがあって、自業自得的な苦しみを味わったとしても、神は私たちを見捨てるのではなく、私たちが神の思いを理解することができるように、あらゆる出来事を通して気づかせてくださるということを、私は大切にしたいとあらためて思わされたのです。
 
神は私たちの目から涙をぬぐい去ってくださる。神の御国が完成したときに、私たちに対してなしてくださる約束です。その約束を心から待ち望みつつ、日曜日から始まるアドヴェント(待降節)の日々を過ごすための備えの時としたいと思います。皆さんの一日が神の守りのもとに豊かにありますように!

26/11/2025

2025.11.26(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書25章1節
主よ、
あなたははるか昔の驚くべき計画を
忠実に、誠実に成し遂げられた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙10章23節
約束してくださったのは真実な方なのですから、告白した希望を揺るぎなくしっかり保ちましょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日、おとといと黙想をお届けすることができず、申し訳ありませんでした。おととい(月曜)は、私の属する東北教区の集会準備のため、昨日は会議出席の移動のため、なかなか時間を取ることができませんでした。今朝はゆっくりと時間を取ることができるので、本当に感謝です。今日のローズンゲンから与えられた御言葉を通して、一日を生きる糧としたいと思います。
 
今日の聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは、「神は人間に対してされた約束を、必ず果たされる方である」というものでした。そのことについて黙想したいと思います。
 
神はご自分の心に思い、そのことを自らの行いを通してこの世界に示してくださるというのは、聖書全体で語られていることに他なりません。それは天地創造のときから決して変わることのないものであるというのが、聖書が語るメッセージです。
 
ただ、その歴史によれば、その本質は決して変わることはないのですが、その方法論については「変更」があったことが記されています。それは常に、私たち人間との関わりにおいて、私たちが神が提示された約束をしばしば疑い、逆らい、反故にしようとした人間の歴史というものがあることに対して、神がくだされた変更の他なりません。
 
神が譲歩され続けたその極みが、愛する御子であるイエスをキリスト(救い主)として私たちにお与えになられたことでした。神は微細な部分に対する実にフレキシブル(融通の利いた)態度と、決して変わることのない本質の両方を大切にされる方です。この神の姿勢によって、私たちは生かされていることを、私たちはどれだけ自分自身の土台として据え、大黒柱として建てているだろうかということが問われているのだと思います。
 
今日のふたつの聖句で語られたこと、それは「私たちの希望」です。つまり、神がしっかりと据えてくださった土台、そして大黒柱こそ、私たちが日々を生きるためになくてはならない「希望」であるというのです。この希望に心を寄せて生きる。そのことによって、神の約束は必ず果たされるという、神の忠実さと誠実さが豊かに私たちの目に見えてくるのだと。このことを私たちの胸に刻みつつ、今日の一日を生きていきたいと受け止めました。
 
どうぞ、皆さんの一日に神が親しく臨んでくださいますように。お祈りします。

23/11/2025

2025.11.23(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書49章6節
私はあなたを諸国民の光とし
地の果てにまで、私の救いをもたらす者とする。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録16章9~10節
その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください」とパウロに懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはすぐにマケドニアに向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神が私たちを招いておられるのだと確信したからである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやって来ました。多くの教会では、今週が教会の暦で最終週と位置付けているところが多くあることでしょう。来週から、私たちは救い主イエス・キリストの御降誕を待ち望むアドヴェントを迎えます。その前に、神の国が完成することを望みつつ、この最終週を過ごしていきたい。そんな思いを胸にしつつ、今日のローズンゲンに示された御言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の全世界に対する切なる願い」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書は、イザヤ書の一節でした。すべてが荒廃し、夢も希望を無くなったかのように見えた世界のなかで、しかし、神はこの世界を決して見捨てることはない。ご自分が慈愛を込めて私たち一人ひとりに接しておられるそのまなざしが、今日の聖句にあふれています。
 
私たちにご自分の光を余すところなく照り輝かせてくださり、私たちは神の光によって地の果てまで神の救いを知らされることになる。決して夢や希望が失われたわけではないのです!神は、私たちの現実の世界で、見える世界のなかで荒廃したように見え、そのことを感じたとしても、なおも神はご自分のご計画を着実に進めてくださるというのです。
 
ここに、私たちの視線と神のまなざしとのあいだにズレがあるのだということを、私は受け止めたいのです。私自身があきらめたくなったとしても、神はそんなことをつゆにも思っておられない。あくまで御自身の「御国の平和」という目的の実現に向かって、そのことを私たちに光を通して見せてくださるのです。
 
大切なのは、私たちがこの神の言葉を自分自身の希望として抱くことができるだろうかということです。単なる絵空事ではなくて、希望に満ちあふれたものとして神の言葉が私たちの心に映るかどうかということなのです。私たちの考えや計画をはるかに超越した神のなさることに私たちは心から信頼と希望を寄せることが大いに許されているのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、使徒パウロがキリストを伝える旅行計画を立てていたのにもかかわらず、その計画はさまざまな理由で中止せざるを得なかったときに、幻のなかで神によって示された「新しい計画」について記されたものです。マケドニアという、考えもしなかった土地へキリストの救いを伝えることは、結果として大きな祝福を得ることとなったのです。
 
これはパウロの実力によるものではありませんでした。神がその計画を推進してくださったのです。神のお考えとパウロの計画にはズレがありました。しかし、パウロはそのズレというものを是正するだけの素直さと信頼、そして未来への希望をしっかりと抱いていたからこそ、マケドニアに赴くことができたのです。
 
私たちは一見すると、自分の思いもよらないことが進み行くことが往々にしてあることに気付かされます。しかし、そのような動きのなかで神が私たちの心を動かし、その道を指し示し、神とともに歩む幸いというものを明らかにしてくださる。そんなことを今日の聖書の言葉から聴くことができました。今週一週間、私はそのことを胸にあゆんでいきたいと願います。
 
どうぞ、皆さんの歩む一週間の日々にも、神の素晴らしいご計画が指し示されることにより、私たちの心にある希望の思いがますます豊かにされますように。心からお祈りします。

22/11/2025

2025.11.22(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書3章12~13節
私は怒りの顔をあなたがたに向けない。
私は慈しみ深いからだ。
いつまでも憤ってはいない。
ただ、あなたの過ちを認めよ。
あなたの神である主に背き
私の声には耳も傾けなかったことを――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章12節
私たちの負い目をお赦しください
私たちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
火曜から金曜までの4日間、皆さんに黙想をお届けすることができませんでした。行わなければならないことが山積してしまい、黙想をつづる時間を取ることができませんでした。毎日楽しみにしてくださっている方々には、申し訳ないことをしました。引き続きよろしくお願いします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して受け止めたいと思ったのは、「誰が人の負い目を赦すのか」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、主の祈りの一節です。「私たちに罪を犯したものをゆるしましたから、私たちの犯した罪をおゆるしください」というものです。私は、このワンフレーズに触れるたびに、いつも思わされることがあります。
 
私にはどうしてもゆるすことのできない人がいました。私が当時通っていた教会で経験したことが、あまりにもショッキングだったのと、その出来事によって私自身が大変傷つけられたということがあり、それを傷つけたと私が思っていた相手を、どうしてもゆるすことができなかったのです。かなり長い間、このことに苦しみ、憎しみを抱いていました。
 
そんな思いを抱いていましたから、礼拝のときに祈られる主の祈りになると、どうしてもこのワンフレーズを祈ることができなかったのです。人の過ち(と私が思っていた)などゆるすことができないのに、どうして自分をゆるしてくださいなどと祈ることができるのだろうか。だからといって、この人をゆるすことができない。そんなことで葛藤していたのです。
 
ある日のことです。その思いを教会の役員さんにお話ししたことがありました。その時です。その方はずばりひと言、まさに突き刺さる言葉を私に返されました。「なに言ってるの!だから祈るんじゃない」。このひと言でした。
 
そもそも人は人のことを、そう簡単にゆるすことなどできないのだと。人をゆるすことのできない自分自身を神の前にさらけ出したときに、誰が人の罪や過ちというものをゆるされるのかということが問われていきます。その問われた末に、それを行われる神がおられるではないかと、私たちは気付くことができるのです。
 
怒りや憎しみの感情が私の心を支配しているときに、その感情を無理やり切り離したり、投げ捨てたりすることなどできないのです。うわべだけでゆるしたようなポーズを人前に見せたとしても、そんなことは薄っぺらい演出などということを、神はすべてご存知なのです。
 
だからこそ、私たちは自らの正直さというものを、神の前にさらけ出す。いや、さらけ出さずとも、神はそんな私たちの素のすがたというものをすでにご存知なのです。神の前に丸裸にされたときに、神は私たちのそんなあられもない姿を受け入れてくださるのでしょう。まさに、天地創造の際、人間が神によって造られたように。その時の人間は、まさに丸裸だったのです。
 
このもともとある姿が神によって受け入れられる時に、神に対する深い信頼が生まれ、ゆるすということの深い意味をも知ることができるのだろう。そのことを希望の糧として、今日の一日を歩みたいと願わされたのです。
 
一週間も最終日を迎えました。明日の主の日の備えが、祝されたものとなりますように。そして、自らの姿をかえりみつつ、新しい一週間を神である主とともに歩むことができますように。お祈りします。

17/11/2025

2025.11.17(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編25編10節
主の契約と定めを守る者にとって
主の道はすべて慈しみとまこと。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章11~12節
私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、それぞれの場で主の日を祝い、また安息の一日を過ごされたことかと思います。今日から週日が始まりました。それぞれのお働きのなかで、神あである主がともにおられることを実感できるような日々でありますように!
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「主の御心に生きるならば」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
主の御心、つまり神である主が抱いておられる価値観、それは主の御心を完全に生きたイエス・キリストの価値観でもありますが、この御心(価値観)に生きるということは、私たちの生き方にもどのような影響を及ぼすのでしょうか。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスによって諭された「山上の説教」にある一節ですが、「私のために」人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、、、とあります。私のため、すなわち主の価値観に生きようとするならば、という意味に他なりません。
 
主の価値観に生きることは、私たちが明らかに手に取ってわかるような喜びを味わうできる一方で、今日の聖句は決して嬉しいことばかりでもないのだよと、イエスは人々に語られています。罵倒・迫害・濡れ衣・悪口など、できるならば私たちが避けて通りたいこともあるのだとイエスは「私のために」という言葉を用いて、私たちに知らせようとしているのです。
 
主の道はいばらの道なのだろうか。そのように思えてもおかしくない場面というものは、実際にあるのだと私も思います。主の価値観に生きるというのは、つねに自分自身のうちにある価値観というものを考えざるを得ない場合も数多くありますし、ふたつの価値観のあいだで葛藤し、小競り合いを起こし、衝突することも、私たちの生活のなかでは間々あるのだ思います。
 
そして、主の価値観に生きようと判断し、決断したときに、私たちはこの世界でつらい目に遭う時だってあるのです。しかし、イエスはなおも、そのような人々は「幸いである」と語られました。単なる希望的観測としての幸いではありません。確かにあなたがたは幸せなのだという確証を人々に向けて語られました。
 
そこには、必ず神による慈しみと真実が明らかにされるのだと歌ったのは、イスラエルの王ダビデでした。ダビデも、主の御心に生きようと歩んだ時に。サウル王をはじめとした多くの人たちの憎悪というものを受けながら生きなければなりませんでした。四面楚歌の時もありました。しかし、ダビデはただ神の与えてくださるであろう慈しみと真実に生きました。結果、神は明らかにダビデを祝福し、イスラエル王としての歩みを祝福されました。その祝福によって、イスラエルの民たちもまた神とともに歩む幸いへと導かれたのでした。
 
見た目の良し悪しは私たちの感情にも大きく影響します。しかし、その向こうに神の慈愛が私たちに向かって来るのです。それをしっかりと受け止めて生きるか、過ぎ去ってしまうのを気づかずに、またそれよりもしがみつこうとする何かに生きるか。それは、私たちの「判断と決断」によるものであることをしっかりと胸に抱いて、今日という一日を生きていきたいと願い、受けとめたいと思いました。
 
皆さんの一日にも、神である主の御心が明らかにされますように。心からお祈りします。

16/11/2025

2025.11.16(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編106編44~45節
それでも、叫びを聞かれたとき 主は彼らの苦しみを顧み 彼らのために契約を思い起こされた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録7章59節
ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、私の霊をお受けください」と言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。この一週間も、神が私たちとともにいてくださることを、日々の歩みのなかで感じ取り、それゆえに喜ぶことができますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神は私たちの叫びに必ず耳を傾けてくださる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちの苦しみとは何でしょうか。私たちの人生において、苦しみのないことなどありえません。どんなに苦しみから逃れようとも、大なり小なり苦痛が容赦なく私たちを襲います。その苦しみに寄り添い、励ましてくれる人が近くにいたら、私たちはそれだけで心が慰められて、何とか頑張っていける。そのように思うのではないでしょうか。
 
しかし、自分自身の苦しみが周囲になかなか理解してもらえない時、それゆえに孤独を感じることも、私たちの生活にはしばしば起きることもあるのだと、私は自分自身の経験からも実感させられます。だから叫びたいのです。しかし、どんなに叫ぼうとも騒音にしか受け取ってもらえない環境ならば、叫ぶことすら馬鹿馬鹿しくなってしまうことも間々あるのです。だから、叫ぶことすらやめてしまうのです。
 
叫べば相手に迷惑がかかるということもあるでしょう。だから、叫ぶことをぐっとこらえて前に進もうとすることもあるでしょう。しかし、今日の聖句が言わんとしていることは「叫んでもいいのだよ」というメッセージに他なりません。誰にでしょうか。私たちの叫びを知っていてくださる神に他なりません。
 
今日の旧約聖書の言葉に「彼らのための契約」という言葉が登場します。彼らとは神の民のことを指すわけですが、はるか昔、神とイスラエルの民とのあいだに交わされた契約は、神が私たち民を守られるという神側の提示と、それに応答し、神とともに歩む決意をする民たちとの関係性について物語るものです。
 
神に叫ぶという行為は、私たちは決して孤独ではない。誰も理解してもらえない状況のなかにあっても、神は私たちの苦しみをすべてご存知なうえで、神が思うがままに私たちを守られるということを信頼する表れとして、叫ぶということが大いに許されているのだと私は受け止めました。
 
私たちの苦しみに応えられる神が、私たちにとって最もベストとされる道を備え、その道を歩む力をもお与えくださるというのです。それは、もしかすると私たちが望むような解放の道ではないかもしれません。見た目にはいばらの道のように思えるかもしれません。しかし、神は最終的に叫びに応えてくださるのです。
 
今日の新約聖書は、イエスこそ救い主であることを告白したがために、石打ちの刑に遭い命を落としたステファノの叫びでした。ステファノは命乞いをしたわけではありませんでした。死を目前とするなかにあって、その命をすべて神に委ねたのでした。神はどんなことがあっても、この私に祝福の道を与えてくださるのだと。だから、死を目の前にしても、そのことを叫びました。命は落としましたが、神とともに御国で歩むことのできる幸いというものを噛みしめながら、多くの信仰者たちの励みになったに違いないのです。
 
いたずらに殉教することを賞賛するわけでもありませんが、ステファノの死が決して無駄にならない。そのことを信じて今日も歩みたいと思いました。どうか今日一日の歩みを支えられる神が、皆さんとともに豊かにありますように。心から祈ります。

15/11/2025

2025.11.15(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編90編14節
朝には、あなたの慈しみに満たされ
すべての日々を楽しみ、喜ぶことができますように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一1章5節
私のこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を目標としています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。日々寒さの募るなかにあって、今日も神によって健康が支えられますように。たとえ肉体が、心が弱っていたとしても、神がともにいてくださることを希望とすることができますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「未来を指し示される神の幸い」というものでした。そのことについてつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、使徒パウロが愛する若い同労者であるテモテに宛てて書いた手紙の一節です。そのなかで「私のこの命令は」と記されています。この命令とは何でしょうか。
 
今日の聖句の前、3~4節にはこのように記されています。
私がマケドニアに行くときに頼んでおいたとおり、あなたはエフェソにとどまって、ある人々に、異なる教えを説いたり、 作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないように命じなさい。そのようなことは、無意味な詮索を引き起こすだけで、信仰による神の計画を実現させるものではありません。
 
エフェソというのは、今でいう「スピリチュアルな街」であったと言っても良いかもしれません。この町を守る女神アルテミス信仰をはじめとして、魔術、占星術といった、何か強力なものに心惹かれ、そこに自分たちの思いを託そうとする動きというものが街中に広がっていたと言われています。
 
そのようななかで、パウロはテモテに対して、そのような一見魅力的と呼べるような「未来を指し示すための何か」に引き寄せられるよりも、はるかに力強い御手で私たちを導いてくださる神がともにいてくださる。救い主であるイエスこそ、私たちの心の支えなのだということを知らせたほうが、その人にとっての幸いとなるのだよということを伝えたのでした。
 
私たちの未来をすべてご存知である神は、私たちがどのように歩むべきかを、それが私たちの意思とはことなるものであったとしても、神が私にとってベストな道というものを準備してくださっているということを、さまざまな形を通して教え諭してくださるのだ。そのことを今日も聖書の言葉と聖霊の助けを通して、私たちに与えられていることを、私たちは喜びつつ受け取りたいと私は思ったのです。
 
その思いは、今日の旧約聖書に示された詩編の一節に相通じるものです。今日も神の慈しみを心から感じる朝がやってまいりました。私たちの心には悲しさも寂しさもあることでしょう。しかし、神の慈愛は決して変わることなく私たちの心を守り、今日歩む一日へと導いてくださることを信じて、神が与えてくださる喜びを胸にして歩むことができるようにと祈りつつ過ごしてまいりたいと願います。
 
皆さんの一日に、そのような神である主がともにいてくださることを感じ取る者となることができますように。お祈りします。

14/11/2025

2025.11.14(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記32章11節
鷲がその巣を揺り動かし
雛の上を舞うように
主は民を
翼に乗せて運ばれた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書10章29節
イエスは言われた。私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、誰も彼らを父の手から奪うことはできない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。私たちに命と生活を与えてくださった神が、今日も私たちひとりひとりとともにいてくださいますように。神の守りと平安をお祈りします!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「神は私たちを守ってくださる」というものでした。そのことについてつづりたいと思います。
 
そのことを想像させる聖句は、今日の旧約聖書の言葉である申命記32章の一節です。親鳥がひな鳥をその翼でしっかりと守るというイメージです。人間の世界もそうなのですが、動物の世界も過酷です。命を奪うか取られるかの状況のなかで、いかに命を守るかというのは、まさに存続がかかっている問題です。
 
このシビアでシリアスな状況のなかで、命を守られる神が私たちとともにおられるというのです。決しておおげさな話ではないと私は受け止めたいのです。それがたとえ文字通りの救急救命のようなものでなかったとしても、私たちの心をも神は親鳥のように守ってくださる。これが申命記で語られているメッセージです。
 
また、命を守るというのは、現実に私たちに訪れる物理的な死から免れるという意味でもありません。私たちが神に守られているということは、地上の生にあっても、その生を終えたとしても、神がその命を永遠なるものへと導いてくださるということに他なりません。
 
そのことを信じて、今日も命の尊さと、その尊さを保証してくださる神の守りに感謝して、一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日も神が力ある御手をもって守ってくださいますように。心よりお祈りします。

13/11/2025

2025.11.13(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章1節
主よ、私はあなたの救いを喜びます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一15章57節
私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださる神に、感謝しましょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。どんな状況にあっても、今日生きるその時を与えてくださった神が、私たちの命を祝福してくださいますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「好調だから喜ぶのではない」ということです。そのことについて黙想したいと思います。
 
今日の聖句は、イスラエルの指導者となったサムエルの母ハンナの祈り、そしてキリストの宣教者パウロによるメッセージの言葉です。そして、これらの言葉が祈られ、また書かれた前提にあったものが共通しています。それは「苦悩」でした。
 
ハンナはなかなか子どもが授かりませんでした。子どもが授かるというのは、当時の世界では祝福と大いに関係のある者とみなされていました。ですから、ハンナになかなか子が与えられないのは、自分自身が祝福から遠くある者と彼女は考えていました。だからこそ、彼女は悩み苦しみました。
 
しかし、彼女に男の子が与えられます。この男の子こそサムエルだったのです。神は私の苦しみを決して捨て置くことなく、神の御心によって確かな答えを与えてくださった。だからこそハンナは神に自分をささげました。大切な子を自分の所有物とすることは決してなく、神のものとしてささげたのです。苦しみの末にハンナが神によって与えられた喜びは、そのまま喜びとして神にお返しすることができたのです。
 
同じことが、使徒パウロにも言えました。パウロはイエスをキリスト(救世主)であることをひとりでも多くの人たちに伝えようと努めました。しかし、彼のそのような働きが万人の喜びとなったわけではありませんでした。時に怒りや憎しみを買い、命が危ぶまれることだってあったのです。
 
しかし、パウロが経験したこれらの苦労は「決して無駄にならない」ということを、パウロは手紙においてその読み手に書きつづりました。第一コリント書15章は、まさに「復活に向かう希望は、決して私たちにとって無駄なものではないのだ」ということをつづり、その結論として、その喜びを与えてくださる神に感謝しましょうという、今日の新約聖書の言葉へとつながっていったのです。
 
喜びというのは、から騒ぎ的な、もしくはどんちゃん騒ぎするようなものでは決してなく、私たちは決して喜べるような状況でなかったとしても、それを惜しみなく与えてくださる神が私たちとともにおられるという実感が、私たちひとりひとりを本当の意味での喜びへと導いてくださるのだということを、私は今日の聖句を通して受け止めたいと思ったのです。
 
悲しみが、寂しさが、たとえ私たちに容赦なく襲ったとしても、神はご自分の喜びというものを、その場にもっともふさわしい形で与えてくださるということを信じることができますように。そして、そのことが私たちにとっての希望のいしずえとなることができますように。お祈りします。

12/11/2025

2025.11.12(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記1章17節
裁判において偏りがあってはならない。小さな者にも大きな者にも等しく耳を傾けなさい。裁きが神のものである以上、誰をも恐れてはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙2章9節
しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と定められます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。今日も皆さんの一切が、神の守りによって平安を味わう一日でありますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神の裁き」というものです。そのことについて黙想したいと思います。
 
私たちが裁きという言葉を耳にしたときに、どのようなイメージが沸き起こるでしょうか。私ならば「断罪」という意味が容易に浮かび上がりますし、裁くという言葉の意味であることは間違いないわけです。
 
しかし、裁き=断罪というのは、裁きという言葉の一部分しか表していないのだとあらためて思わされます。私はどちらかと言えば、裁き=審査という言葉のほうが近いのではないかと思っています。審査の結果、断罪することもあれば、そうでない場合もあるということです。実際に「審」という言葉を用いて「審き(さばき)」という語があるくらいですから。
 
つまり、裁きの意味するところとは、公平・公正に審査するということなのです。それが法治国家であるならば法に基づいてそのことをなされるわけです。そして、今日の聖句が指し示す裁きの基準とは「神の公正さ」であることが記されています。裁きの根本にあるのは、神が私たちに対してどのような思いをもって命を与え、尊厳を与え、生きる幸いを与えているかということに他なりません。そもそも「法」というのも、歴史的に良心に基づいた倫理的な視点があって発展したことも、私たちは決して見逃すことができないのです。
 
昨今、インターネットやSNSの普及によって、情報というものが多岐にわたって、広く私たちのもとに届けられるようになっています。誰もが簡単に情報を発信することができるのです。しかし、それら情報のなかには、極めて公平性・公正に欠けるもの、倫理観の欠如をもよおしながら広く発信されるものがなんと多いことかと思わされることがあります。実に嘆かわしいことです。
 
裁きというものは、裁かれるその結果が出されるまでは何も分からないのです。にもかかわらず、その結果が出される前から断罪という一面ばかり強調されるがゆえに、その情報が流布されて、今日の聖句にもあるように偏りのある見方、考え方が人々のもとに届くということがあります。冤罪というものはそのような一面的な断罪から起きるものであって、私たちの世界における偏りや分け隔てというものの産物なのだと思わされるのです。
 
しかし、私が思うに、これは人間の「限界」なのだと思います。見える部分だけで判断をし、断片的な情報だけで意思を決定するような世の中は、何を隠そう私たち人間がつくりあげているということを、私たちは決して忘れてはならないのだと思います。
 
だからこそ、私たちは公平に、公正にこの世界を調べ、審査され、その結果をご自分の言葉をもって示される神の裁きというものに、是非心を寄せていきたいと思わされます。隠れたところをすべて見ておられ、ご存知である神ですから、その神の信頼に心からアーメンに答え応じる者でありたい。これが、今日私が受け止めたいと思ったことでした。
 
ゆがまない、偏らない、分け隔てしない神の思いが私たちの心に届き、染み込み、そのことが私たちの神によって作り上げられる私たちの生きる基盤となることができますように。一日の平安を心よりお祈りします。

11/11/2025

2025.11.11(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨシュア記8章1節
恐れてはならない。おののいてはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書9章29~30節
イエスが二人の目に触れ、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われると、二人は目が見えるようになった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。

今日のローズンゲンに示された御言葉によって、神が語り掛けてくださるメッセージに耳と心を傾けてまいりたいと思います。これらふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神のなさることに望みを託す」というものでした。そのことについて黙想したいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は「二人の盲人を癒やす」という小見出しが、私の使用している聖書協会共同訳に記されています。実際にイエスによって盲人の目が癒やされ、彼らの目は見えるようになりました。しかし、これは単に目の見えなかった人たちの視力が回復したという出来事だけを述べている物語なのでしょうか。
 
私はその前提にあるイエスと盲人たちとのやり取りに注目したいと思いました。盲人たちは、イエスに「私たちを憐れんでください」(27節)と叫びながら、イエスの後を付いて行きました。この「憐れんでください」という言葉に隠された、これまで盲人たちが背負ってきたさまざまなヒストリーというものを考えてみたのです。
 
確かに目が見えないことで、さまざまな生活の支障があったことでしょう。いわゆる健常者と同じことができないがために、多くの苦痛を得てきたことでしょう。身体的なものにとどまらず、精神的にも社会的にも、彼らは苦しかったのです。この状況のすべてをひっくるめて、彼らは「私たちを憐れんでください」と訴えたのだと私は思うのです。
 
彼らの主訴は、その目が癒やされることにあるのではなく、苦しんでいる自分自身を憐れんでくださいというものだったのです。この苦しみを、イエスならば取り除いてくださるに違いないという確信が彼らにはありました。それがどのような方法によって解放されるかということも含めて、イエスに自分たちの望みを託したのでした。イエスによって見えない目が癒やされたのは、イエスによって与えられた答えであり、その結果だったのだと。
 
イエスは盲人たちに尋ねました。「私にできると信じるのか」(28節)。この「できる」というのが、目を癒やすことそのものだったのか。結果から見れば確かにその通りだったでしょう。しかし、盲人たちがイエスこそ自分たちに憐れみをかけてくださるということが「できる」というイエスの言葉に集約されていると読むことだってできるのだと私は思うのです。
 
私たちの望みというのを神はどのように聴き入れ、そして望みを具体的にかたちにしてくださるのか。私たちにはそのすべてを予測することはできません。神が主体にあるからです。しかし、決して悪いようにはなさらない。恐れず、臆することなくイエスに一縷の望みを託して叫び続けたというところに、彼らの「信仰」があったということだと私は受け止めたいのです。イエスは「あなたがたの信仰の通りになれ」と答えられました。イエスの憐れみは、結果的に彼らの目が見えるようになるという出来事へと、盲人たちの希望を現実へと揺り動かしていかれたのでした。
 
私たちはあらゆることに恐れ、おののきます。不安に駆られて、先行きの見えない自らの進路をためらいながら、おっかなびっくり歩むこともあるでしょう。しかし、それらを乗り越えて歩むことができるのは、神に希望を託すこと。私たちの思いをはるかに超越した神の御業が、私たちの今日の一日をも守り、平安を与え、祝福してくださる。このことに、私たちひとりひとりが希望にして歩んでまいりたいのです。
 
皆さんにとっての今日の歩みが、そのようなものとなりますように。私もそうしたいと思います。お祈りします。

10/11/2025

2025.11.10(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨブ記33章13~14節
なぜ、あなたは神と争うのか
自分の言葉に神が一つも答えないからといって。
神は一度語り、また再び語るが
人はそれに気付かない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録2章7節
耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。

昨日はそれぞれの持ち場で主の日を過ごされたことと思います。そして、今日から週日が始まりました。訪れる日々が、神である主とともに歩む幸いを味わえるものとなりますように!
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「神の御心は神によって必ず示される」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、ヨブ記の一節でした。悪魔のいたずらによって、命以外のものはすべて奪われ、取り去られてしまったヨブは、苦悩のなかにありました。ヨブは神のなさることを心から信じていました。これまで多くの祝福をいただいていました。しかし、ヨブは何もかも失ってしまったときに、「神は本当に私の思いを分かっていてくださっているのだろうか」と、神に問いかけます。そして、神に対してそのことを訴えました。
 
これはヨブに限ったことではありません。自分は神を信じているのに、どうして私が願う通りにならないのだ。そんなことで私たちは往々にして思い悩むのです。まさに、今日の聖句にある通りです。しかし、本当に神は私たちの訴えを知らないのでしょうか。それに答えてくださっていないのでしょうか。 
 
今日の聖句は、そんな私たちの思いを打ち砕きます。神はすべてをご存知なのだ。そして、ことあるごとにあなたに語りかけている。しかし、その意味を探ろうとせず、受けとめも受け入れもしないのは、何を隠そう私たち人間の側にあるのだと。
 
私たちはどうしても「自我」を「神の御心」にすり替えて、さも自分の願望が果たせないときに、神の御心はどこにあるのかと疑いの思いを抱いてしまうのです。これはアダムとエバ以来、人間が抱き続けてきた「認識のゆがみ」に他なりません。自分を神としてしまうのです。そして、自分の意に沿わない出来事を、いとも簡単に神に責を押し付けてしまうのです。自分自身が神によって「変えられていく」ことを知らずにです。
 
私たちはそのことに気付けないのです。ヨブに語りかけられた今日の聖句は、まさに私たちひとりひとりにも問われていることなのだと、私は真摯に、そして謙虚に受け止めていきたいと思わされました。聖書の言葉に触れるとき、神に祈りの言葉をつむぎ、神に自分自身の眼を注ぐときに、たとえ自分の願望が果たせなくても、だからこそ、神の言葉には自分自身の思いや心を変革する何かがあることを信じ、そこに希望を寄せたいのです。
 
私たちの聴く心が問われています。今日の新約聖書の言葉は「耳のある者は聞きなさい」と語りかけます。物理的な耳ではなく、心を傾ける。自我を超越する、はるかに私自身を豊かにさせる神の言葉が、聖霊の導きを通して今日も迫って来ることを想います。そんなことを、今日の一日、そして今日から始まる週日の日々のなかで、じっくりと黙想し、その通りに生きることができたら、どんなに幸せだろうかと希望を抱きつつです。
 
神の御声を通してその御心を知る幸いを味わうことができますように。お祈りします。

09/11/2025

2025.11.9(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記4章23節
あなたがたは気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れず、あなたの神、主が禁じられたいかなる形の彫像も、自分のために造らないようにしなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙1章20節
神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。

新しい一週間が訪れました。今日、世界中で行われる主の日の祝祭を通して、礼拝や集会、神を想うすべての人が、神の御姿というものを感じ取ることのできる素敵な時となりますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が今日受け止めたいと思ったメッセージは「つくられたものを通して神を見る」というものでした。そのことについて書きつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、自らつくりあげた「偶像」を神とすることへの警告の言葉でした。偶像とは英語で「アイドル」と言います。日本でアイドルという言葉を今でも使っているかどうかは私もよくわからないのですが、いわゆる「推し」という言葉で今は表現されているのかもしれません。いずれにしても偶像という言葉には「自分好みの」という意味が込められていると私は受け止めています。
 
つまり、あらゆる物事に対して、私たちはもちろん「好き嫌い」というものがあるわけですが、そんな時に「神はこの物事に対してどのように思われているか」という視点を、私たちは知らず知らずの間に自分の思いのなかから排除してしまうことがあるのではないか、私はそんなことを感じました。神の思いを問い尋ねることよりも、自分自身の欲求を優先して物事をとらえてしまうのです。
 
こうして自分好みのものだけを優先してしまうと、もう他のものがどうなってしまおうと、私には知ったことではないという態度を明らかにしてしまうのです。そうなってしまうと、そこにはもはや平和などは存在しなくなってしまいます。どちらか一方が自分だけの好みを追求すればそのことによって犠牲が生じますし、互いの自己利益が募れば衝突して争いになってしまう。良いことなど何ひとつないのです。
 
だからこそ、物事を通して神を見つめるということの大切さというものを、今日の聖句は教えているような気がしてなりません。私が見ているこの出来事を、神はどのようにご覧になられているのかという視点は、自分自身を客観化するうえでとても大切な作業であると私は思います。自分自身を客観化したときに、神が私たちの主体に立っていくのです。神の思い(神の御心とか神の価値観と言い換えることもできるでしょう)が私たちの真ん中に立った時に、そこには必ず平和が生み出されていくのだと、私は強く信じたいし、そのことを胸に、神にある平和的な営みというものをもって、今日も歩んでいきたい。そう願わされました。
 
神がもたらしてくださる永遠の祝福に向かう私たちが、神を見つめつつ、今日も与えられた命を喜ぶことができますように。お祈りします。

08/11/2025

2025.11.8(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書42章16節
私は目の見えない人に知らない道を行かせ
知らない道を歩かせる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書8章12節
イエスは言われた。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。

今週も最終日となりました。一週間に遭った数々の出来事を振り返りつつ、新しい一週間への備えの時として、今日の一日も神が皆さんを祝福してくださいますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「新たな道」というものでした。そのことについてつづりたいと思います。
 
私にとって、今日の聖句もそうですが、眼に関係した聖句に触れると、自分自身の状況と重ね合わせることが多くなりました。この1~2年間、眼病のために見ることに不自由を覚えていましたから、「見えること・見ること・見つめること」の意味と、その大切さというものをより実感できていると自分自身思うからです。
 
昨日も右眼の再手術の術後1週間検査と診察を受けました。右眼は順調に回復しているのですが、ちょうどひと月前に手術をした左眼に濁りが出ているとのことでした。水晶体レンズを入れると必ずと言ってよいほど起きる現状(後発白内障と言うのだそうです)で、やはり左眼の症状が重かったからということもあるのだそうですが、その濁りの速度が速いのだそうです。レーザーを当てることで簡単に改善されるとのことで、さっそくその処置を受けました。昨日は散瞳していたので、その効果がよくわからなかったのですが、今朝起きたらいささか感じていた見えにくさが改善されていました。見えることへの感動を再び味わうことができました。
 
その時の状況によって、見えたり見えなくなったり、見えやすくなったり見えづらくなることもある。これは、私たちの「神を見る眼」に相通じるものがあるのだと私は受け止めました。私たちは常に心が安定しているわけではありません。外的・内的な要因にかかわらず、神がともにおられるということに素直に喜んだり、それが実感できないときに喜べないといった、まさに一喜一憂しながら生きているのだと思うのです。
 
しかし、そんな私たちを神は決して見捨てられることはありません。見えないならば見えるように導き、見えるならばそのことの深い意味を与えて、私たちの心に喜びというものを深く刻み込ませてくださったり、見え続けないことに辛さを感じるときには、かつて得た喜びを思い起こさせることによって、神を再び認識できるように、私たちを整えてくださるのです。
 
そのことを神が、そして神が私たちに「見えるようなかたち」で理解できるために、人のかたちをとって私たちと同じ人間でともに生きてくださったイエスの生涯、その言動を通して、私たちは神とともに歩むことへの実感を積み重ねていくことができるのでしょう。イエスの言葉に耳と心を傾けていくことへの幸いというものを、今日もじっくりと味わいたいと思わされました。そのことが、明日への良き土台となることができますように。神である主の平安を心よりお祈りします。
 

07/11/2025

2025.11.7(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編40編17節
あなたを尋ね求める人すべてが
あなたによって喜び楽しみますように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書19章38節
主の名によって来られる王に
祝福があるように。
天には平和
いと高き所には栄光があるように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。

今日も新しい一日がやって来ました。皆さんにとってのこの一日が、喜びにあふれたものとなりますように!
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったこと。それは「私たちの喜びはどこから来るのか?」というものでした。そのことについてつづってみたいと思います。
 
喜びと聞いて私たちはどのようなイメージを抱くでしょうか。今日の聖句が伝えようとしているメッセージは、「神である主を『探し求める』ことで得ることのできる喜び」です。つまり、私たちにとっての喜びの源は、神とともにあることと抜き差しならぬ関係にあることを、いにしえの信仰者たちは大切にしていたことがわかります。
 
神が私たちに与えてくださる喜びは、誰の目から見ても明らかな、外的な喜びも多くあるでしょう。しかし、たとえ見た目に分かる喜びだけを物語っているわけではありません。私たちが経験することが、たとえ素直に喜べないことがあったとしても、それを他者が認めないような出来事であったとしても、神が与えてくださる喜びは決して消え去るわけではありません。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスが都エルサレムに入城した際に、イエスの到来を喜んだ人々による歓喜の声について描かれているものです。確かにその時はイエスに対する期待が素直に人々の喜びとして表れた瞬間でした。
 
しかし、その後にイエスに訪れたことは、決して喜べない状況でした。イエスが捕らえられ、人々のあざけりや憎しみを受けながら、十字架によって殺されてしまうからです。喜びとは対極にある「見た目」が、人々の心に突き刺さります。
 
ただ、それは神による深いご計画によれば、内からにじみ出る「喜びの源」となったことは間違いなかったのです。その後のイエスによる復活の出来事は、確かに人間の命を活かし、人々を後々喜びへと導く確かな根拠となったのです。神の与えてくださる喜びは、すぐに分からないことも多くあるでしょう。しかし、その喜びは必ずや私たちに確かに与えられるものであることを、今日のふたつの聖句は私たちに気付かせてくださるのだ。私はそのように受け止めたいと思ったのです。
 
外的なものだけではない。内的な喜びが今日も私たち一人ひとりを包み込んでくださる。そのことを私たちの希望の基とすることができますように。お祈りします。

06/11/2025

2025.11.6(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書48章9節
私は、自らの名のために、怒りを遅らせ
自らの誉れのために、これを抑えて
あなたを絶ち滅ぼさなかった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書1章21節
天使はヨセフに言った。
「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。

今日は朝から病院へ行ってまいりました。8月に受けた心臓カテーテル手術の事後検査の結果を聞くためでした。おかげさまで異常はまったく見られず、服薬も終了しました。これで、ひとつ抱えていたことから解放されて、大変嬉しい気持ちをもって自宅へ戻ってまいりました。皆さんのお祈りに、心から感謝します。ありがとうございました。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の忍耐と譲歩」というものでした。そのことについてもくそをつづってみたいと思います。
 
昨日、私はある牧師と夕食をともにしていたときに、こんなことが話題にのぼりました。人に向き合ってその人の課題に付き合うというのは、本当に悩み、また忍耐の要るものだと。牧師とて生身の人間ですし、こんな仕事をしていると、自分自身の欠けというものをなおのこと痛感させられますから、忍耐をもって人と向き合うということが、こんなにも難しいものなのだということもしばしば思わされます。牧師だから特別な存在などというのは、どこにもないのです。
 
しかし、それに開き直って傍若無人に振舞って良いわけもありません。神の言葉を通して与えられる神の御姿というものに自分自身が慰められ、励まされながらも、この神とともに生きるということへの喜びをかみしめながら、その喜びを出会う一人ひとりと共有したいと心から願わされるのも、また確かな話なのです。そう考えますと、忍耐というとても難しい課題に、自分自身が真摯に向き合うことの大切さを、試行錯誤しながらも日々学ばされているという具合なのです。
 
今日の聖句は、神が私たち人間に対して、いかに忍耐強く接しておられるかということへの深い思索を与える言葉となっています。「自らの名のために」「自らの誉れのために」私たち人間への忍耐を示されたというのが、今日の旧約聖書の言葉が物語らんとしていることです。神の名は「私たちとともにいてくださる」という意味がこめられています。見捨てることのない神、ときに厳しく接することもあるでしょう。しかし、あくまで私たち一人ひとりに忍耐強く接しておられる神は、決してあきらめることなく、私たちとともに歩んでくださるというのです。
 
私たち人間の自己努力ではいかんともしがたい状況があるなかで、神は最大限の譲歩をされたというのが、ご自分の大切な御子を私たちのために命の救い主として与えてくださったという事実に他なりません。これ以上の譲歩はないのです。では、この譲歩に私たちはいかに応えることができるのだろうか。それを十全になすことが無理であったとしても、だからこそ、忍耐と譲歩という生きる道を、少しでも私たちの思いと心にとどめ、それを反芻しながら私たちの生きる大切なこととして守り続け、私たちがそういう生き方を営みたいと願うことなのでしょう。少なくとも私は、そういう生き方をしたいと今日もあらためて願わされました。
 
これはだれか一方が、どちらかが犠牲を払ってでもしなければならないことではありません。神から忍耐と譲歩を受けた者同士が、互いにそのことを尊重し続けていくのであれば、人と人との間に平和が生み出されていくのでしょう。そのことを胸にして、今日の一日を歩んで行くことが出来ますように。お祈りします。

05/11/2025

2025.11.5(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
哀歌3章40節
私たちは自らの道を探し、調べて
主のもとへ帰ろう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙1章9~10節
私は、こう祈ります。あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになり、本当に重要なことを見分けることができますように。そして、キリストの日には純粋で責められるところのない者となりますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。

黙想とは何の関係もないことなのですが、私にとって11月5日という日には特別な思いを抱かされるものがあって、それは1985年のことでしたから、あれから今日でちょうど「40年」が経ったのだなとつくづく感じさせられました。
 
聖書で40年と聞けば、多くの方は「出エジプトにおける荒野の40年」を思い出されるかもしれません。エジプトを脱出したイスラエル人にとって、神が指し示された約束の地にたどり着くまでの40年間は、まさに荒漠としたなかを苦しみのうちに歩まなければならないものでした。しかし、だからと言って神がこの民を見捨てたわけではありませんでした。つねに見守り、導き、その約束を必ず果たされる神が、民たちとともにいてくださいました。
 
私たちは、神が私たちのためにともにいてくださったという感覚になかなか気づけないことがあります。自分に都合の良い時だけ、調子よく神を賛美してしまうのです。ちょっとでも自分にとって不都合なことがあれば、不平をこぼし、恨み節を簡単に発してしまうのが私たちの現実です。苦しみの要素をつなぎ合わせて悲劇をつくりあげてしまうのです。
 
しかし、そうであってはならない。私は、今日与えられたふたつのローズンゲンに収められた聖句を通して、「識別する」ことの大切さをあらためて思わされました。物事を平板化して、思索することも「なぜ」も問うことなく、自分の身の上に起きた事柄を自らの欲求や感情にまかせて答えを出し、言動に表現してしまうことで、本当に大切なことを見失ってしまうのではないか。そのためにも、探し求めること、じっくりと調べること、心の底から感じとること、物事の奥深くにある本質を見い出すことを、いかに私たちが大切にできるかというところに、今日の聖句が与えようとしているメッセージの肝があるのだと、私は受け止めたのです。
 
そのためにも、神がイエス・キリストを通して惜しみなく与えてくださった「愛」は、絶対不可欠なものに他なりません。愛とはどんな時にも、決して消え去ることのないいつくしむ思いであり、神が出エジプトのときにも、私たちの生活のなかでも、私たちがたとえ苦難のただなかを歩んでいるときにも、私たちの命を大切にするがために、ときには優しく、ときには厳しく私たちに迫り来る源、それが「愛」なのだと私は受け取って歩みたいのです。
 
40年前の11月5日、私は「父がいなくなってしまった」環境のなかで、新しい生活が始まった日でした。まだこどもでした。眼に見えることでしか、物事を判断できないくらい、何も持ち合わせていませんでした。それだけに、自分に遭遇する数々の出来事に、思い、悩み、苦しみ、この苦しみからどのように解放され、抜け出せるのかが分からず、もがき苦しむことも多々ありました。
 
しかし、神の愛が迫り来ることで、物事の奥に秘められた「本当に大切なこと=本質」が何であるかを知ることで、神がともにおられることを身近に感じ、それを希望として生きていくことができる。そこに喜びを噛みしめつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日にも、神の愛がますます豊かにさせてくださいますように。お祈りします。

04/11/2025

2025.11.4(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編116編9節
主の前を私は歩む
生ける者の地で。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙6章11節
あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。

世の中では3連休が終わり、通常通りの生活が戻ってまいりました。あっという間に秋も深まっていくのを感じるのは、東北だからなのでしょうか。随分寒い朝を迎えるようになりました。暖房をかけて、朝のひと時を迎えています。皆さんもお風邪をひかれることなく、今日の一日をお過ごしくださいますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「生きている者」という言葉でした。神によって命与えられてこの世界で生きる私たち。そのことについて黙想をつづってみたいと思います。
 
私たちがいただいている信仰は、私たちの命は父母を通して「神が授けてくださったもの」であるということへの深い認識から来ています。私たちの命は私のものであることに間違いありませんが、「私の独占物」ではありません。あくまで神が命の息吹を与え、その命が祝福に向かうようにと私たちのために生きて働いてくださる神がおられるからこそ生きていけるのだという認識です。だから、私の命は私のものですが、究極的に神のものなのです。
 
ですから、神とのつながりなしに、私たちは生きることはありえないのだというのが、私たちが大切にしたい信仰の中核にあるものなのです。それは私たちの生というものを決して束縛するものではありません。むしろ解放へと向かわせ、誰にも妨げられず、また侵し合うことのない、犠牲のともなわない自由が神によって与えられるのです。私たちは神によって与えられた命を、神の思いに自分の心を合わせて生きることで、そこには決して派手ではないけれど、じんわりと心の底からにじみ出るような祝福があふれてくるのを、心から感じることができるのです。
 
今日の新約聖書の言葉には「罪にあっては死んだ者」という言葉が登場します。ここで言う罪とは一般的な悪事を指すのではなく、その前提にある「神との断絶という私たちの選択、関係性の破綻」という意味を指す言葉です。この手紙を書いたパウロはそのことを心から実感していました。神とつながらない日々の生活は、通常の生活は営めるかもしれない、それなりの満足感も得られるかもしれない。しかし、そこに命はないのだと。本当の意味での命の幸いがないのだと。パウロはそのことを言いたくて、手紙に書きしたためました。
 
神である「主」の御前にあって、私たちは神と歩調を合わせながら、イエス・キリストとともに歩む一日が、今日も与えられました。命の幸いを見い出すためにです。そんなところから生じてくる命の幸いと喜びが、私たちの生きる土台となることができますように。

03/11/2025

2025.11.3(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨブ記16章19節
今も天に私の証人がいる。
私のために証言してくれる方が高い所にいる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙4章14節
さて、私たちには、もろもろの天を通って来られた偉大な大祭司、神の子イエスがおられるのですから、信仰の告白をしっかり保とうではありませんか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。

世の中では3連休の最終日として、今日の一日を過ごされる方々も多いかと思います。皆さんにとって、どうぞ良き休息の一日となりますようお祈りします。私はある研修会で講演をするために、故郷である福島市へ出かけます。車で1時間ほどの道のりですが、今から大変楽しみです。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは、「神が分かっていてくださっているのだから」というものです。そのことについてつづってみたいと思います。
 
人に理解されないことがあります。どんなに誠意をつくしても、分かって欲しいと丁寧に説明をして理解を求めても、なかなかそうならないことがあります。そういうことが続くと、自分自身のなかで感じるのは「孤独」であり、「くやしさ」でもあり「悲しさ」でもある。そんな経験を誰もがしたことがあるのではないでしょうか?
 
私自身、数年前に起きて現在もなお続いている「ある出来事」を通して、そのような思いにさせられることがありました。その出来事について、断片的にインターネット、SNSなどを通して断片的に語られます。なかには、悪意をもってそれを拡散する人たちすらいる始末です。あらためて、インターネットが持つ「情報力」の怖さというものを痛感させられました。
 
そのような孤独感やくやしさ、苦しさというものを経験する一方で、私の思いに耳と心を傾けてくれる大勢の方々がおられたことも確かです。そういう存在にどれだけ慰められ、励まされてきたことでしょう。何も私のイエスマンを求めているわけでもない。ただ、それに同意できようができまいが、断片的な情報だけで判断をしないということを示してくれるだけで、本当にありがたい思いがしたのでした。
 
私は思うのです。眼に見える人たちがおられるという存在だけで、励まされたり慰められたりするのだから、ましてや私たちの神がそのような御方であったするならば、なおのこと心強いのだろうと。まさに、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、そのことの確証を私たちに与える言葉であると、私はアーメンと受け取りたいのです。
 
誰からも理解されなくても、隠れたところまで見ておられ、何が善であり悪であるかをすべてご存知である神がおられるのですから、決して私の人生を悪いようにはなさらないのだと。もちろん、そのような神の御前で、人に対してもただ誠実に生きることが大切なわけではありますが。。。
 
今日の新約聖書・ヘブライ人への手紙には「信仰の告白」をしっかり保とうではありませんかとありました。信仰の告白。そのような神が私とともにいてくださる。イエスが私とともにいてくださる。聖霊が私とともにいてくださる。三位一体の有機的な神の働きに包まれながら、生きていけるということを、私の心の支えとして生きること。まさに、それが「信仰の告白」に他ならないのです。
 
そのことが、今日生きる私たちの「希望」となることができますように。神に祈りつつ、神とともに歩んでまいりたいと思います。

02/11/2025

2025.11.2(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書2章15節
多くの国民が主に連なり
私の民となる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録21章3節
神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。

本当に久しぶりに黙想をつづり、それをお届けし、神の御言葉の恵みを分かち合うことができる幸いを噛みしめつつ、神と皆さんに心から感謝いたします。
 
そして、今日は週のはじめの日。世界中で行われる主の日の礼拝が、大いに祝されたものでありますように祈ります。私たちの教会では、本日の礼拝は「永眠者記念礼拝」として、礼拝の時を過ごす予定です。
 
そんななかで、今日の新約聖書の言葉に選ばれたのは「ヨハネの黙示録」の終盤部分にある一節でした。神の国が「新しい天と新しい地」として訪れる際に、私たちの世界に何が実現されるのかについて描いています。
 
ひと言でいえば、私たちの主である神が「私たちとともにいてくださることで、本当に私たちの神となってくださる」ということの実現です。つまり、神が天地創造の時に意図された目的が完全に成し遂げられることを、この聖句は如実に物語っているのです。
 
「主」という神の名前には「私はある」という意味があることは、大昔に神がモーセをはじめとするイスラエルの民たちに告げたとおりでした。「私は神であり、私はあなたがたとともにいることで、私はあなたがたの神となる」。全存在を示すその名前の意味こそ、神が神であることの紛れもない存在意義だったのです。
 
その目的がいよいよ回復される。反抗者の挑戦、神との関係性を問われる人間の試行錯誤の歴史に終止符が打たれようとしている言葉が、まさに今日の聖書の言葉として、私たちひとりひとりに与えられているのです。
 
神は私たちに向かって、その両手を差し伸べてくださり、私たちに歩み寄られました。この時だけではありません。ずっとずっとです。大切なのは、私たちがそのことに気付いて、伸ばされた手に自らの手を置くべく、私たちが生きようとしているだろうか。という問いに、どれだけ真摯に私たちが向き合い続けているだろうか、ということにあるのだと私は受け止めたいのです。
 
神の伸ばされた手に自分自身の手を合わせて生きるというのは、まさに「神の価値観を自分の生き方とする」ことに他なりません。それは、否が応にもといった、私たちの意思が無視されてもそのようにしなければならないということでは決してありません。あくまで私たち個々人に与えられた判断と決断は、何ら妨げられることはないのです。
 
だからこそ、私たちが「本当にそうしたいのか?」と問われるのです。神が手を差し伸べられるその腕には、神が私たちひとりひとりの命を守るべく広げられた心がある。それこそ「神の示された愛」に他なりません。私たちを慈しまれる神の御心を、私たちはいつでも知る機会が与えられているし、それを理解し、自分自身のものとし、生きる大きな柱とすることができるのです。
 
ですから、「本当にそうしたいのか?」ということに十分に自分の答えをもって歩むことができるように、今日も神の御言葉に耳と心を傾けることが大いに許されています。神が与えてくださったごちそうを頂くように、それを心から味わいたい。今日の聖書の言葉を通して、私が受け止めたいと思ったことです。
 
皆さんにとっての一日が、神とともにある幸いに包まれますように。心からお祈りします。

01/11/2025

ローズンゲン黙想再開のお知らせ


皆さん、大変ご無沙汰しております。いつもローズンゲン黙想をご愛読くださり、まことにありがとうございます。

さて、しばらくの間黙想をお休みしておりましたが、明日より再開することにいたしました。

すでにご存知の方もおられるかと存じますが、私事、10月に両目の硝子体除去手術および白内障手術をおこないました。手術は医師の当初の予想以上にうまくいき、両眼ともはっきりくっきりと見えるようになりました。

これまでは、聖書の文字はもとより、ローズンゲンの文字や、パソコンの文字まで見ることのできない日々が続いておりましたので、大変不便と不安を抱きながら、この2年近いあいだを過ごしてまいりましたが、まさに「世界が変わった」がごとく、見るものすべてが新鮮に映るようになりました。イエスによって癒された盲人が、嬉しさのあまり躍り上がる気持ちも、今ならば理解できます。

ということで、これまで私のために祈り、支えてくださいました皆さまに心から感謝しつつ、今後とも神の御言葉を通じて、良きお交わりができることを楽しみにしております。どうぞ今後とも主にあってよろしくお願い申し上げます。

齋藤 篤