くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨブ記33章13~14節
なぜ、あなたは神と争うのか
自分の言葉に神が一つも答えないからといって。
神は一度語り、また再び語るが
人はそれに気付かない。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録2章7節
耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
******
皆さん、おはようございます。
昨日はそれぞれの持ち場で主の日を過ごされたことと思います。そして、今日から週日が始まりました。訪れる日々が、神である主とともに歩む幸いを味わえるものとなりますように!
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「神の御心は神によって必ず示される」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
今日の旧約聖書の言葉は、ヨブ記の一節でした。悪魔のいたずらによって、命以外のものはすべて奪われ、取り去られてしまったヨブは、苦悩のなかにありました。ヨブは神のなさることを心から信じていました。これまで多くの祝福をいただいていました。しかし、ヨブは何もかも失ってしまったときに、「神は本当に私の思いを分かっていてくださっているのだろうか」と、神に問いかけます。そして、神に対してそのことを訴えました。
これはヨブに限ったことではありません。自分は神を信じているのに、どうして私が願う通りにならないのだ。そんなことで私たちは往々にして思い悩むのです。まさに、今日の聖句にある通りです。しかし、本当に神は私たちの訴えを知らないのでしょうか。それに答えてくださっていないのでしょうか。
今日の聖句は、そんな私たちの思いを打ち砕きます。神はすべてをご存知なのだ。そして、ことあるごとにあなたに語りかけている。しかし、その意味を探ろうとせず、受けとめも受け入れもしないのは、何を隠そう私たち人間の側にあるのだと。
私たちはどうしても「自我」を「神の御心」にすり替えて、さも自分の願望が果たせないときに、神の御心はどこにあるのかと疑いの思いを抱いてしまうのです。これはアダムとエバ以来、人間が抱き続けてきた「認識のゆがみ」に他なりません。自分を神としてしまうのです。そして、自分の意に沿わない出来事を、いとも簡単に神に責を押し付けてしまうのです。自分自身が神によって「変えられていく」ことを知らずにです。
私たちはそのことに気付けないのです。ヨブに語りかけられた今日の聖句は、まさに私たちひとりひとりにも問われていることなのだと、私は真摯に、そして謙虚に受け止めていきたいと思わされました。聖書の言葉に触れるとき、神に祈りの言葉をつむぎ、神に自分自身の眼を注ぐときに、たとえ自分の願望が果たせなくても、だからこそ、神の言葉には自分自身の思いや心を変革する何かがあることを信じ、そこに希望を寄せたいのです。
私たちの聴く心が問われています。今日の新約聖書の言葉は「耳のある者は聞きなさい」と語りかけます。物理的な耳ではなく、心を傾ける。自我を超越する、はるかに私自身を豊かにさせる神の言葉が、聖霊の導きを通して今日も迫って来ることを想います。そんなことを、今日の一日、そして今日から始まる週日の日々のなかで、じっくりと黙想し、その通りに生きることができたら、どんなに幸せだろうかと希望を抱きつつです。
神の御声を通してその御心を知る幸いを味わうことができますように。お祈りします。
0 件のコメント:
コメントを投稿