くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章1節
主よ、私はあなたの救いを喜びます。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一15章57節
私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださる神に、感謝しましょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。どんな状況にあっても、今日生きるその時を与えてくださった神が、私たちの命を祝福してくださいますように!
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「好調だから喜ぶのではない」ということです。そのことについて黙想したいと思います。
今日の聖句は、イスラエルの指導者となったサムエルの母ハンナの祈り、そしてキリストの宣教者パウロによるメッセージの言葉です。そして、これらの言葉が祈られ、また書かれた前提にあったものが共通しています。それは「苦悩」でした。
ハンナはなかなか子どもが授かりませんでした。子どもが授かるというのは、当時の世界では祝福と大いに関係のある者とみなされていました。ですから、ハンナになかなか子が与えられないのは、自分自身が祝福から遠くある者と彼女は考えていました。だからこそ、彼女は悩み苦しみました。
しかし、彼女に男の子が与えられます。この男の子こそサムエルだったのです。神は私の苦しみを決して捨て置くことなく、神の御心によって確かな答えを与えてくださった。だからこそハンナは神に自分をささげました。大切な子を自分の所有物とすることは決してなく、神のものとしてささげたのです。苦しみの末にハンナが神によって与えられた喜びは、そのまま喜びとして神にお返しすることができたのです。
同じことが、使徒パウロにも言えました。パウロはイエスをキリスト(救世主)であることをひとりでも多くの人たちに伝えようと努めました。しかし、彼のそのような働きが万人の喜びとなったわけではありませんでした。時に怒りや憎しみを買い、命が危ぶまれることだってあったのです。
しかし、パウロが経験したこれらの苦労は「決して無駄にならない」ということを、パウロは手紙においてその読み手に書きつづりました。第一コリント書15章は、まさに「復活に向かう希望は、決して私たちにとって無駄なものではないのだ」ということをつづり、その結論として、その喜びを与えてくださる神に感謝しましょうという、今日の新約聖書の言葉へとつながっていったのです。
喜びというのは、から騒ぎ的な、もしくはどんちゃん騒ぎするようなものでは決してなく、私たちは決して喜べるような状況でなかったとしても、それを惜しみなく与えてくださる神が私たちとともにおられるという実感が、私たちひとりひとりを本当の意味での喜びへと導いてくださるのだということを、私は今日の聖句を通して受け止めたいと思ったのです。
悲しみが、寂しさが、たとえ私たちに容赦なく襲ったとしても、神はご自分の喜びというものを、その場にもっともふさわしい形で与えてくださるということを信じることができますように。そして、そのことが私たちにとっての希望のいしずえとなることができますように。お祈りします。
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