12/11/2025

2025.11.12(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記1章17節
裁判において偏りがあってはならない。小さな者にも大きな者にも等しく耳を傾けなさい。裁きが神のものである以上、誰をも恐れてはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙2章9節
しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と定められます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。今日も皆さんの一切が、神の守りによって平安を味わう一日でありますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神の裁き」というものです。そのことについて黙想したいと思います。
 
私たちが裁きという言葉を耳にしたときに、どのようなイメージが沸き起こるでしょうか。私ならば「断罪」という意味が容易に浮かび上がりますし、裁くという言葉の意味であることは間違いないわけです。
 
しかし、裁き=断罪というのは、裁きという言葉の一部分しか表していないのだとあらためて思わされます。私はどちらかと言えば、裁き=審査という言葉のほうが近いのではないかと思っています。審査の結果、断罪することもあれば、そうでない場合もあるということです。実際に「審」という言葉を用いて「審き(さばき)」という語があるくらいですから。
 
つまり、裁きの意味するところとは、公平・公正に審査するということなのです。それが法治国家であるならば法に基づいてそのことをなされるわけです。そして、今日の聖句が指し示す裁きの基準とは「神の公正さ」であることが記されています。裁きの根本にあるのは、神が私たちに対してどのような思いをもって命を与え、尊厳を与え、生きる幸いを与えているかということに他なりません。そもそも「法」というのも、歴史的に良心に基づいた倫理的な視点があって発展したことも、私たちは決して見逃すことができないのです。
 
昨今、インターネットやSNSの普及によって、情報というものが多岐にわたって、広く私たちのもとに届けられるようになっています。誰もが簡単に情報を発信することができるのです。しかし、それら情報のなかには、極めて公平性・公正に欠けるもの、倫理観の欠如をもよおしながら広く発信されるものがなんと多いことかと思わされることがあります。実に嘆かわしいことです。
 
裁きというものは、裁かれるその結果が出されるまでは何も分からないのです。にもかかわらず、その結果が出される前から断罪という一面ばかり強調されるがゆえに、その情報が流布されて、今日の聖句にもあるように偏りのある見方、考え方が人々のもとに届くということがあります。冤罪というものはそのような一面的な断罪から起きるものであって、私たちの世界における偏りや分け隔てというものの産物なのだと思わされるのです。
 
しかし、私が思うに、これは人間の「限界」なのだと思います。見える部分だけで判断をし、断片的な情報だけで意思を決定するような世の中は、何を隠そう私たち人間がつくりあげているということを、私たちは決して忘れてはならないのだと思います。
 
だからこそ、私たちは公平に、公正にこの世界を調べ、審査され、その結果をご自分の言葉をもって示される神の裁きというものに、是非心を寄せていきたいと思わされます。隠れたところをすべて見ておられ、ご存知である神ですから、その神の信頼に心からアーメンに答え応じる者でありたい。これが、今日私が受け止めたいと思ったことでした。
 
ゆがまない、偏らない、分け隔てしない神の思いが私たちの心に届き、染み込み、そのことが私たちの神によって作り上げられる私たちの生きる基盤となることができますように。一日の平安を心よりお祈りします。

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