くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
哀歌3章40節
私たちは自らの道を探し、調べて
主のもとへ帰ろう。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙1章9~10節
私は、こう祈ります。あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになり、本当に重要なことを見分けることができますように。そして、キリストの日には純粋で責められるところのない者となりますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
黙想とは何の関係もないことなのですが、私にとって11月5日という日には特別な思いを抱かされるものがあって、それは1985年のことでしたから、あれから今日でちょうど「40年」が経ったのだなとつくづく感じさせられました。
聖書で40年と聞けば、多くの方は「出エジプトにおける荒野の40年」を思い出されるかもしれません。エジプトを脱出したイスラエル人にとって、神が指し示された約束の地にたどり着くまでの40年間は、まさに荒漠としたなかを苦しみのうちに歩まなければならないものでした。しかし、だからと言って神がこの民を見捨てたわけではありませんでした。つねに見守り、導き、その約束を必ず果たされる神が、民たちとともにいてくださいました。
私たちは、神が私たちのためにともにいてくださったという感覚になかなか気づけないことがあります。自分に都合の良い時だけ、調子よく神を賛美してしまうのです。ちょっとでも自分にとって不都合なことがあれば、不平をこぼし、恨み節を簡単に発してしまうのが私たちの現実です。苦しみの要素をつなぎ合わせて悲劇をつくりあげてしまうのです。
しかし、そうであってはならない。私は、今日与えられたふたつのローズンゲンに収められた聖句を通して、「識別する」ことの大切さをあらためて思わされました。物事を平板化して、思索することも「なぜ」も問うことなく、自分の身の上に起きた事柄を自らの欲求や感情にまかせて答えを出し、言動に表現してしまうことで、本当に大切なことを見失ってしまうのではないか。そのためにも、探し求めること、じっくりと調べること、心の底から感じとること、物事の奥深くにある本質を見い出すことを、いかに私たちが大切にできるかというところに、今日の聖句が与えようとしているメッセージの肝があるのだと、私は受け止めたのです。
そのためにも、神がイエス・キリストを通して惜しみなく与えてくださった「愛」は、絶対不可欠なものに他なりません。愛とはどんな時にも、決して消え去ることのないいつくしむ思いであり、神が出エジプトのときにも、私たちの生活のなかでも、私たちがたとえ苦難のただなかを歩んでいるときにも、私たちの命を大切にするがために、ときには優しく、ときには厳しく私たちに迫り来る源、それが「愛」なのだと私は受け取って歩みたいのです。
40年前の11月5日、私は「父がいなくなってしまった」環境のなかで、新しい生活が始まった日でした。まだこどもでした。眼に見えることでしか、物事を判断できないくらい、何も持ち合わせていませんでした。それだけに、自分に遭遇する数々の出来事に、思い、悩み、苦しみ、この苦しみからどのように解放され、抜け出せるのかが分からず、もがき苦しむことも多々ありました。
しかし、神の愛が迫り来ることで、物事の奥に秘められた「本当に大切なこと=本質」が何であるかを知ることで、神がともにおられることを身近に感じ、それを希望として生きていくことができる。そこに喜びを噛みしめつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日にも、神の愛がますます豊かにさせてくださいますように。お祈りします。
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