くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編81編8節
あなたが苦難の中で呼ぶと
私はあなたを助け出した。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書14章30~31節
ペトロは風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日も皆さんの一日を神である主が守ってくださいますように。心からお祈りします。私は火曜から台湾基督長老教会と日本基督教団の教会協議会という会議に出席しています。台湾の教会の姿勢や働きから多くを学ぶ機会を頂いています。学ぶだけではなく、それをどのように日々の宣教の働きに生かすことができるだろうか。そんなことを考えながら過ごしています。あらためて学ぶこと、交流することの大切さを噛みしめています。感謝です。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは、「必ず助けてくださる神」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
本当に助けてくださるのだろうか。すぐに助けてくださるのだろうか。望むように助けてくださるのだろうか。そんなことが頭や心をよぎることがあります。神が助けてくださるということに確信を抱いているからこそ、私たちは神を信じることができるのだということは間違いないと思うのです。しかし、「自分自身の思うように」神が助けてくださるのだろうかと言えば、そのようにはなかなかならないと思うのが、私たちの現実であるかもしれません。だからこそ、苦難というものを私たちは味わうのだとあらためて思わされます。
そんなときに、今日の聖句のような「神は私たちの苦しみに手を差し伸べ、必ず助けてくださる」ということを彷彿とさせる言葉に出会うと、自分自身の現実と照らし合わせては、多少のズレというものを痛感させられるのです。ただ、そういうことがあるからこそ、私たちはなおのこと、神の御心というものを真剣に尋ね求めるきっかけとなることもまた事実なのです。ズレがあることを神の責任に押し付けるのではなく、まず自分自身に対して認知・認識のズレというものがあるのだろうかと、丁寧に分析することができるのだと。そのために私自身の心や思いを整える大切な機会となるのだと私は信じたいのです。
私たちの苦しみを理解してくださる神は、私たちの苦しみの根源が、神とともに生きるがゆえの痛みや苦しみであるならば、神がそんな私たちをそのままにされておくはずがないというのが、今日の聖句が語るメッセージの中核にあるものです。たとえ認識のズレがあって、自業自得的な苦しみを味わったとしても、神は私たちを見捨てるのではなく、私たちが神の思いを理解することができるように、あらゆる出来事を通して気づかせてくださるということを、私は大切にしたいとあらためて思わされたのです。
神は私たちの目から涙をぬぐい去ってくださる。神の御国が完成したときに、私たちに対してなしてくださる約束です。その約束を心から待ち望みつつ、日曜日から始まるアドヴェント(待降節)の日々を過ごすための備えの時としたいと思います。皆さんの一日が神の守りのもとに豊かにありますように!
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