くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書42章16節
私は目の見えない人に知らない道を行かせ
知らない道を歩かせる。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書8章12節
イエスは言われた。「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩まず、命の光を持つ。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今週も最終日となりました。一週間に遭った数々の出来事を振り返りつつ、新しい一週間への備えの時として、今日の一日も神が皆さんを祝福してくださいますように!
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「新たな道」というものでした。そのことについてつづりたいと思います。
私にとって、今日の聖句もそうですが、眼に関係した聖句に触れると、自分自身の状況と重ね合わせることが多くなりました。この1~2年間、眼病のために見ることに不自由を覚えていましたから、「見えること・見ること・見つめること」の意味と、その大切さというものをより実感できていると自分自身思うからです。
昨日も右眼の再手術の術後1週間検査と診察を受けました。右眼は順調に回復しているのですが、ちょうどひと月前に手術をした左眼に濁りが出ているとのことでした。水晶体レンズを入れると必ずと言ってよいほど起きる現状(後発白内障と言うのだそうです)で、やはり左眼の症状が重かったからということもあるのだそうですが、その濁りの速度が速いのだそうです。レーザーを当てることで簡単に改善されるとのことで、さっそくその処置を受けました。昨日は散瞳していたので、その効果がよくわからなかったのですが、今朝起きたらいささか感じていた見えにくさが改善されていました。見えることへの感動を再び味わうことができました。
その時の状況によって、見えたり見えなくなったり、見えやすくなったり見えづらくなることもある。これは、私たちの「神を見る眼」に相通じるものがあるのだと私は受け止めました。私たちは常に心が安定しているわけではありません。外的・内的な要因にかかわらず、神がともにおられるということに素直に喜んだり、それが実感できないときに喜べないといった、まさに一喜一憂しながら生きているのだと思うのです。
しかし、そんな私たちを神は決して見捨てられることはありません。見えないならば見えるように導き、見えるならばそのことの深い意味を与えて、私たちの心に喜びというものを深く刻み込ませてくださったり、見え続けないことに辛さを感じるときには、かつて得た喜びを思い起こさせることによって、神を再び認識できるように、私たちを整えてくださるのです。
そのことを神が、そして神が私たちに「見えるようなかたち」で理解できるために、人のかたちをとって私たちと同じ人間でともに生きてくださったイエスの生涯、その言動を通して、私たちは神とともに歩むことへの実感を積み重ねていくことができるのでしょう。イエスの言葉に耳と心を傾けていくことへの幸いというものを、今日もじっくりと味わいたいと思わされました。そのことが、明日への良き土台となることができますように。神である主の平安を心よりお祈りします。
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