17/11/2025

2025.11.17(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編25編10節
主の契約と定めを守る者にとって
主の道はすべて慈しみとまこと。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章11~12節
私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、それぞれの場で主の日を祝い、また安息の一日を過ごされたことかと思います。今日から週日が始まりました。それぞれのお働きのなかで、神あである主がともにおられることを実感できるような日々でありますように!
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「主の御心に生きるならば」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
主の御心、つまり神である主が抱いておられる価値観、それは主の御心を完全に生きたイエス・キリストの価値観でもありますが、この御心(価値観)に生きるということは、私たちの生き方にもどのような影響を及ぼすのでしょうか。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスによって諭された「山上の説教」にある一節ですが、「私のために」人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、、、とあります。私のため、すなわち主の価値観に生きようとするならば、という意味に他なりません。
 
主の価値観に生きることは、私たちが明らかに手に取ってわかるような喜びを味わうできる一方で、今日の聖句は決して嬉しいことばかりでもないのだよと、イエスは人々に語られています。罵倒・迫害・濡れ衣・悪口など、できるならば私たちが避けて通りたいこともあるのだとイエスは「私のために」という言葉を用いて、私たちに知らせようとしているのです。
 
主の道はいばらの道なのだろうか。そのように思えてもおかしくない場面というものは、実際にあるのだと私も思います。主の価値観に生きるというのは、つねに自分自身のうちにある価値観というものを考えざるを得ない場合も数多くありますし、ふたつの価値観のあいだで葛藤し、小競り合いを起こし、衝突することも、私たちの生活のなかでは間々あるのだ思います。
 
そして、主の価値観に生きようと判断し、決断したときに、私たちはこの世界でつらい目に遭う時だってあるのです。しかし、イエスはなおも、そのような人々は「幸いである」と語られました。単なる希望的観測としての幸いではありません。確かにあなたがたは幸せなのだという確証を人々に向けて語られました。
 
そこには、必ず神による慈しみと真実が明らかにされるのだと歌ったのは、イスラエルの王ダビデでした。ダビデも、主の御心に生きようと歩んだ時に。サウル王をはじめとした多くの人たちの憎悪というものを受けながら生きなければなりませんでした。四面楚歌の時もありました。しかし、ダビデはただ神の与えてくださるであろう慈しみと真実に生きました。結果、神は明らかにダビデを祝福し、イスラエル王としての歩みを祝福されました。その祝福によって、イスラエルの民たちもまた神とともに歩む幸いへと導かれたのでした。
 
見た目の良し悪しは私たちの感情にも大きく影響します。しかし、その向こうに神の慈愛が私たちに向かって来るのです。それをしっかりと受け止めて生きるか、過ぎ去ってしまうのを気づかずに、またそれよりもしがみつこうとする何かに生きるか。それは、私たちの「判断と決断」によるものであることをしっかりと胸に抱いて、今日という一日を生きていきたいと願い、受けとめたいと思いました。
 
皆さんの一日にも、神である主の御心が明らかにされますように。心からお祈りします。

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