くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書3章12~13節
私は怒りの顔をあなたがたに向けない。
私は慈しみ深いからだ。
いつまでも憤ってはいない。
ただ、あなたの過ちを認めよ。
あなたの神である主に背き
私の声には耳も傾けなかったことを――主の仰せ。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章12節
私たちの負い目をお赦しください
私たちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
火曜から金曜までの4日間、皆さんに黙想をお届けすることができませんでした。行わなければならないことが山積してしまい、黙想をつづる時間を取ることができませんでした。毎日楽しみにしてくださっている方々には、申し訳ないことをしました。引き続きよろしくお願いします。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して受け止めたいと思ったのは、「誰が人の負い目を赦すのか」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
今日の新約聖書の言葉は、主の祈りの一節です。「私たちに罪を犯したものをゆるしましたから、私たちの犯した罪をおゆるしください」というものです。私は、このワンフレーズに触れるたびに、いつも思わされることがあります。
私にはどうしてもゆるすことのできない人がいました。私が当時通っていた教会で経験したことが、あまりにもショッキングだったのと、その出来事によって私自身が大変傷つけられたということがあり、それを傷つけたと私が思っていた相手を、どうしてもゆるすことができなかったのです。かなり長い間、このことに苦しみ、憎しみを抱いていました。
そんな思いを抱いていましたから、礼拝のときに祈られる主の祈りになると、どうしてもこのワンフレーズを祈ることができなかったのです。人の過ち(と私が思っていた)などゆるすことができないのに、どうして自分をゆるしてくださいなどと祈ることができるのだろうか。だからといって、この人をゆるすことができない。そんなことで葛藤していたのです。
ある日のことです。その思いを教会の役員さんにお話ししたことがありました。その時です。その方はずばりひと言、まさに突き刺さる言葉を私に返されました。「なに言ってるの!だから祈るんじゃない」。このひと言でした。
そもそも人は人のことを、そう簡単にゆるすことなどできないのだと。人をゆるすことのできない自分自身を神の前にさらけ出したときに、誰が人の罪や過ちというものをゆるされるのかということが問われていきます。その問われた末に、それを行われる神がおられるではないかと、私たちは気付くことができるのです。
怒りや憎しみの感情が私の心を支配しているときに、その感情を無理やり切り離したり、投げ捨てたりすることなどできないのです。うわべだけでゆるしたようなポーズを人前に見せたとしても、そんなことは薄っぺらい演出などということを、神はすべてご存知なのです。
だからこそ、私たちは自らの正直さというものを、神の前にさらけ出す。いや、さらけ出さずとも、神はそんな私たちの素のすがたというものをすでにご存知なのです。神の前に丸裸にされたときに、神は私たちのそんなあられもない姿を受け入れてくださるのでしょう。まさに、天地創造の際、人間が神によって造られたように。その時の人間は、まさに丸裸だったのです。
このもともとある姿が神によって受け入れられる時に、神に対する深い信頼が生まれ、ゆるすということの深い意味をも知ることができるのだろう。そのことを希望の糧として、今日の一日を歩みたいと願わされたのです。
一週間も最終日を迎えました。明日の主の日の備えが、祝されたものとなりますように。そして、自らの姿をかえりみつつ、新しい一週間を神である主とともに歩むことができますように。お祈りします。
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