くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編116編9節
主の前を私は歩む
生ける者の地で。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙6章11節
あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
世の中では3連休が終わり、通常通りの生活が戻ってまいりました。あっという間に秋も深まっていくのを感じるのは、東北だからなのでしょうか。随分寒い朝を迎えるようになりました。暖房をかけて、朝のひと時を迎えています。皆さんもお風邪をひかれることなく、今日の一日をお過ごしくださいますように。お祈りします。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「生きている者」という言葉でした。神によって命与えられてこの世界で生きる私たち。そのことについて黙想をつづってみたいと思います。
私たちがいただいている信仰は、私たちの命は父母を通して「神が授けてくださったもの」であるということへの深い認識から来ています。私たちの命は私のものであることに間違いありませんが、「私の独占物」ではありません。あくまで神が命の息吹を与え、その命が祝福に向かうようにと私たちのために生きて働いてくださる神がおられるからこそ生きていけるのだという認識です。だから、私の命は私のものですが、究極的に神のものなのです。
ですから、神とのつながりなしに、私たちは生きることはありえないのだというのが、私たちが大切にしたい信仰の中核にあるものなのです。それは私たちの生というものを決して束縛するものではありません。むしろ解放へと向かわせ、誰にも妨げられず、また侵し合うことのない、犠牲のともなわない自由が神によって与えられるのです。私たちは神によって与えられた命を、神の思いに自分の心を合わせて生きることで、そこには決して派手ではないけれど、じんわりと心の底からにじみ出るような祝福があふれてくるのを、心から感じることができるのです。
今日の新約聖書の言葉には「罪にあっては死んだ者」という言葉が登場します。ここで言う罪とは一般的な悪事を指すのではなく、その前提にある「神との断絶という私たちの選択、関係性の破綻」という意味を指す言葉です。この手紙を書いたパウロはそのことを心から実感していました。神とつながらない日々の生活は、通常の生活は営めるかもしれない、それなりの満足感も得られるかもしれない。しかし、そこに命はないのだと。本当の意味での命の幸いがないのだと。パウロはそのことを言いたくて、手紙に書きしたためました。
神である「主」の御前にあって、私たちは神と歩調を合わせながら、イエス・キリストとともに歩む一日が、今日も与えられました。命の幸いを見い出すためにです。そんなところから生じてくる命の幸いと喜びが、私たちの生きる土台となることができますように。
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