06/11/2025

2025.11.6(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書48章9節
私は、自らの名のために、怒りを遅らせ
自らの誉れのために、これを抑えて
あなたを絶ち滅ぼさなかった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書1章21節
天使はヨセフに言った。
「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。

今日は朝から病院へ行ってまいりました。8月に受けた心臓カテーテル手術の事後検査の結果を聞くためでした。おかげさまで異常はまったく見られず、服薬も終了しました。これで、ひとつ抱えていたことから解放されて、大変嬉しい気持ちをもって自宅へ戻ってまいりました。皆さんのお祈りに、心から感謝します。ありがとうございました。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の忍耐と譲歩」というものでした。そのことについてもくそをつづってみたいと思います。
 
昨日、私はある牧師と夕食をともにしていたときに、こんなことが話題にのぼりました。人に向き合ってその人の課題に付き合うというのは、本当に悩み、また忍耐の要るものだと。牧師とて生身の人間ですし、こんな仕事をしていると、自分自身の欠けというものをなおのこと痛感させられますから、忍耐をもって人と向き合うということが、こんなにも難しいものなのだということもしばしば思わされます。牧師だから特別な存在などというのは、どこにもないのです。
 
しかし、それに開き直って傍若無人に振舞って良いわけもありません。神の言葉を通して与えられる神の御姿というものに自分自身が慰められ、励まされながらも、この神とともに生きるということへの喜びをかみしめながら、その喜びを出会う一人ひとりと共有したいと心から願わされるのも、また確かな話なのです。そう考えますと、忍耐というとても難しい課題に、自分自身が真摯に向き合うことの大切さを、試行錯誤しながらも日々学ばされているという具合なのです。
 
今日の聖句は、神が私たち人間に対して、いかに忍耐強く接しておられるかということへの深い思索を与える言葉となっています。「自らの名のために」「自らの誉れのために」私たち人間への忍耐を示されたというのが、今日の旧約聖書の言葉が物語らんとしていることです。神の名は「私たちとともにいてくださる」という意味がこめられています。見捨てることのない神、ときに厳しく接することもあるでしょう。しかし、あくまで私たち一人ひとりに忍耐強く接しておられる神は、決してあきらめることなく、私たちとともに歩んでくださるというのです。
 
私たち人間の自己努力ではいかんともしがたい状況があるなかで、神は最大限の譲歩をされたというのが、ご自分の大切な御子を私たちのために命の救い主として与えてくださったという事実に他なりません。これ以上の譲歩はないのです。では、この譲歩に私たちはいかに応えることができるのだろうか。それを十全になすことが無理であったとしても、だからこそ、忍耐と譲歩という生きる道を、少しでも私たちの思いと心にとどめ、それを反芻しながら私たちの生きる大切なこととして守り続け、私たちがそういう生き方を営みたいと願うことなのでしょう。少なくとも私は、そういう生き方をしたいと今日もあらためて願わされました。
 
これはだれか一方が、どちらかが犠牲を払ってでもしなければならないことではありません。神から忍耐と譲歩を受けた者同士が、互いにそのことを尊重し続けていくのであれば、人と人との間に平和が生み出されていくのでしょう。そのことを胸にして、今日の一日を歩んで行くことが出来ますように。お祈りします。

0 件のコメント:

コメントを投稿