16/11/2025

2025.11.16(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編106編44~45節
それでも、叫びを聞かれたとき 主は彼らの苦しみを顧み 彼らのために契約を思い起こされた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録7章59節
ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、私の霊をお受けください」と言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。この一週間も、神が私たちとともにいてくださることを、日々の歩みのなかで感じ取り、それゆえに喜ぶことができますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神は私たちの叫びに必ず耳を傾けてくださる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちの苦しみとは何でしょうか。私たちの人生において、苦しみのないことなどありえません。どんなに苦しみから逃れようとも、大なり小なり苦痛が容赦なく私たちを襲います。その苦しみに寄り添い、励ましてくれる人が近くにいたら、私たちはそれだけで心が慰められて、何とか頑張っていける。そのように思うのではないでしょうか。
 
しかし、自分自身の苦しみが周囲になかなか理解してもらえない時、それゆえに孤独を感じることも、私たちの生活にはしばしば起きることもあるのだと、私は自分自身の経験からも実感させられます。だから叫びたいのです。しかし、どんなに叫ぼうとも騒音にしか受け取ってもらえない環境ならば、叫ぶことすら馬鹿馬鹿しくなってしまうことも間々あるのです。だから、叫ぶことすらやめてしまうのです。
 
叫べば相手に迷惑がかかるということもあるでしょう。だから、叫ぶことをぐっとこらえて前に進もうとすることもあるでしょう。しかし、今日の聖句が言わんとしていることは「叫んでもいいのだよ」というメッセージに他なりません。誰にでしょうか。私たちの叫びを知っていてくださる神に他なりません。
 
今日の旧約聖書の言葉に「彼らのための契約」という言葉が登場します。彼らとは神の民のことを指すわけですが、はるか昔、神とイスラエルの民とのあいだに交わされた契約は、神が私たち民を守られるという神側の提示と、それに応答し、神とともに歩む決意をする民たちとの関係性について物語るものです。
 
神に叫ぶという行為は、私たちは決して孤独ではない。誰も理解してもらえない状況のなかにあっても、神は私たちの苦しみをすべてご存知なうえで、神が思うがままに私たちを守られるということを信頼する表れとして、叫ぶということが大いに許されているのだと私は受け止めました。
 
私たちの苦しみに応えられる神が、私たちにとって最もベストとされる道を備え、その道を歩む力をもお与えくださるというのです。それは、もしかすると私たちが望むような解放の道ではないかもしれません。見た目にはいばらの道のように思えるかもしれません。しかし、神は最終的に叫びに応えてくださるのです。
 
今日の新約聖書は、イエスこそ救い主であることを告白したがために、石打ちの刑に遭い命を落としたステファノの叫びでした。ステファノは命乞いをしたわけではありませんでした。死を目前とするなかにあって、その命をすべて神に委ねたのでした。神はどんなことがあっても、この私に祝福の道を与えてくださるのだと。だから、死を目の前にしても、そのことを叫びました。命は落としましたが、神とともに御国で歩むことのできる幸いというものを噛みしめながら、多くの信仰者たちの励みになったに違いないのです。
 
いたずらに殉教することを賞賛するわけでもありませんが、ステファノの死が決して無駄にならない。そのことを信じて今日も歩みたいと思いました。どうか今日一日の歩みを支えられる神が、皆さんとともに豊かにありますように。心から祈ります。

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