11/11/2025

2025.11.11(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨシュア記8章1節
恐れてはならない。おののいてはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書9章29~30節
イエスが二人の目に触れ、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われると、二人は目が見えるようになった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。

今日のローズンゲンに示された御言葉によって、神が語り掛けてくださるメッセージに耳と心を傾けてまいりたいと思います。これらふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神のなさることに望みを託す」というものでした。そのことについて黙想したいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は「二人の盲人を癒やす」という小見出しが、私の使用している聖書協会共同訳に記されています。実際にイエスによって盲人の目が癒やされ、彼らの目は見えるようになりました。しかし、これは単に目の見えなかった人たちの視力が回復したという出来事だけを述べている物語なのでしょうか。
 
私はその前提にあるイエスと盲人たちとのやり取りに注目したいと思いました。盲人たちは、イエスに「私たちを憐れんでください」(27節)と叫びながら、イエスの後を付いて行きました。この「憐れんでください」という言葉に隠された、これまで盲人たちが背負ってきたさまざまなヒストリーというものを考えてみたのです。
 
確かに目が見えないことで、さまざまな生活の支障があったことでしょう。いわゆる健常者と同じことができないがために、多くの苦痛を得てきたことでしょう。身体的なものにとどまらず、精神的にも社会的にも、彼らは苦しかったのです。この状況のすべてをひっくるめて、彼らは「私たちを憐れんでください」と訴えたのだと私は思うのです。
 
彼らの主訴は、その目が癒やされることにあるのではなく、苦しんでいる自分自身を憐れんでくださいというものだったのです。この苦しみを、イエスならば取り除いてくださるに違いないという確信が彼らにはありました。それがどのような方法によって解放されるかということも含めて、イエスに自分たちの望みを託したのでした。イエスによって見えない目が癒やされたのは、イエスによって与えられた答えであり、その結果だったのだと。
 
イエスは盲人たちに尋ねました。「私にできると信じるのか」(28節)。この「できる」というのが、目を癒やすことそのものだったのか。結果から見れば確かにその通りだったでしょう。しかし、盲人たちがイエスこそ自分たちに憐れみをかけてくださるということが「できる」というイエスの言葉に集約されていると読むことだってできるのだと私は思うのです。
 
私たちの望みというのを神はどのように聴き入れ、そして望みを具体的にかたちにしてくださるのか。私たちにはそのすべてを予測することはできません。神が主体にあるからです。しかし、決して悪いようにはなさらない。恐れず、臆することなくイエスに一縷の望みを託して叫び続けたというところに、彼らの「信仰」があったということだと私は受け止めたいのです。イエスは「あなたがたの信仰の通りになれ」と答えられました。イエスの憐れみは、結果的に彼らの目が見えるようになるという出来事へと、盲人たちの希望を現実へと揺り動かしていかれたのでした。
 
私たちはあらゆることに恐れ、おののきます。不安に駆られて、先行きの見えない自らの進路をためらいながら、おっかなびっくり歩むこともあるでしょう。しかし、それらを乗り越えて歩むことができるのは、神に希望を託すこと。私たちの思いをはるかに超越した神の御業が、私たちの今日の一日をも守り、平安を与え、祝福してくださる。このことに、私たちひとりひとりが希望にして歩んでまいりたいのです。
 
皆さんにとっての今日の歩みが、そのようなものとなりますように。私もそうしたいと思います。お祈りします。

0 件のコメント:

コメントを投稿